人間の生存にとって欠くことのできない権利および自由で,憲法によって保障されたものをいう。たんに人権または基本権ともいう。人間にとって基本的な権利と自由を内容としているので,国の最高の法としての憲法で特別に保障されるようになった。しかし,基本的人権は社会状況を反映し,社会の変化に応じて変遷するので,その観念,具体的内容および保障の法制は国により時代によりさまざまである。基本的人権をめぐる問題は,だれの,どのような自由や権利を,だれから,どのような方法で,どの程度まで保障するのかということになる。
基本的人権の観念は中世ヨーロッパに芽生える。1215年に成立したイギリスのマグナ・カルタは,国王が封建貴族たちの諸要求を承認した契約文書であり,個人の権利・自由を宣言するものではなかったが,後世における解釈と再確認をとおして,その内容上の制約を超えて発展し,権利保護のシンボルとしての意味をもつようになる。17世紀に至り,国民の権利と自由を保障する権利請願(1628),人身保護法(1679),権利章典(1689)が成文法として登場するが,それらは天賦の人権を宣言するのではなく,祖先から継承したイギリス人の権利を確認するものであった。イギリス人の権利は市民革命によって人間一般の権利にまでたかめられるが,それには,近世の合理的な自然法論の与えた影響が大きい。とくに近代立憲主義の思想を体系的に示したジョン・ロックの《統治二論》(1690)は重要である。彼によれば,人は自然状態のもとで人間としての生存に不可欠の自然権として固有の所有権propertyを有し,これには生命,自由,財産が含まれるのであるが,自然権をよりよく確保し,社会の安全を維持するために,他人との合意により政治社会すなわち政府を設立する。政府が信託に違反して人民の権利を奪うときは,人民に抵抗権がみとめられる。世界最初の人権宣言は,1776年6月12日に採択されたアメリカのバージニア権利章典である。そこでは,万人が生まれながらにしてひとしく自由かつ独立しており,一定の生得の権利を有するとされ,そのような権利として財産の所有とともに,幸福追求の手段を伴う生命,自由の享受があげられている。アメリカでは,バージニア以外の諸州も相次いで人権宣言を含む憲法を制定し,アメリカ合衆国憲法にも権利章典が追加される(1791)。ヨーロッパでは,フランス革命時の〈人および市民の権利宣言〉(1789)において,不可譲かつ神聖な自然権と国家生活に関与する市民の権利が高らかに宣言され,近代憲法の核心を形成する人権保障の基礎がきずかれた。
市民革命を経て成立した人権宣言は,自然法理論により基礎づけられており,共通の特色としては,封建的身分制から解放された人間を個人として尊重する個人主義の原則,生得の権利において万人を平等に扱う平等の原則および人民のつくった国家権力といえども奪うことができないという人権の絶対不可侵性があげられる。19世紀に入ると,人権の保障は成文憲法の構成部分となって,世界各国に普及するが,ドイツや日本のように市民革命を経験せずに上からの近代化が進められたところでは,基本的人権も欽定憲法のなかで君主より恩恵的に与えられた国民の権利であって,国家以前の人権ではありえなかった。
18世紀に成立し,19世紀に普及した古典的人権は,信教の自由,言論・出版の自由,住居の不可侵,財産権の不可侵のように,本質的に個人の〈国家からの自由〉をその内容とする自由権であった。それは,市民革命が市民の自由に対する国家の介入と抑圧の排除を目的としておこったこと,および市民階級の最大の要求が自由と財産権の保障であったことから理解される。国家は市民社会の外にあって,社会の安全と自由を確保する夜警国家の役割に甘んじるべきであり,その内部に立ち入って市民の社会生活や経済活動に介入すべきでないという自由放任主義が求められたのである。〈法の前の平等〉の原則も生まれながらの身分による差別を禁ずるものであり,能力,財産,教育などによる区別を排除せず,したがって自由の伸長を抑えるものではなかった。
自由権の保障と財産権の不可侵に象徴される自由放任主義は,社会経済活動の自由競争を力づけ,経済の発展と高度化を促すが,産業革命を経て資本主義が成熟するにつれ,富の偏在,労働者の貧困,失業などの経済のしくみに根ざす深刻な社会問題が発生する。これらの問題を解決するのに〈国家からの自由〉の保障は役に立たない。私的自治や契約の自由が保障されていても,大企業と労働者とのあいだでは,自由で対等の取引ということは有名無実となる。市民社会がその内部矛盾を自律的調整機能によって解決することができなくなれば,国民の生存に対する配慮のため,国家権力の経済過程への介入が要請されるようになる。19世紀末より,市民法の体系の枠からはみだす労働立法や経済立法の形式を伴った社会国家への転回のきざしがみられたが,第1次世界大戦後のワイマール憲法は,人間に価する生存の保障を目的とした正義の原則に適合するような経済生活の秩序を目指し,生存権,労働権,労働者の団結権などの社会権を保障するとともに,それまで不可侵とされてきた経済活動の自由と財産権を制限つきで保障した。
なお,以上の人権史の多くの期間,女性は参政権等をはじめとする基本的人権の享有主体とされていなかったことは注意を要する。しかし,第2次世界大戦後に成立した憲法の多くは,社会権のなかに子ども,女性その他の社会的弱者,少数者保護の規定を含ませている。
ロシア革命ののち,1918年1月25日に採択された〈勤労・被搾取人民の権利宣言〉は,社会主義革命の人権宣言ともいわれるが,人間による人間のあらゆる搾取の廃止,社会の階級的分裂の完全な廃絶および社会主義的な社会組織の確立を基本的な任務として,土地を全人民の財産とし,地下資源,農園などの国有化を宣言し,自由国家の原理を否定する立場を明らかにした。その後相次いで成立するロシア共和国憲法(1918公布)およびソビエト連邦憲法(1936および77公布)には,自由国家におけるのと変わらない自由権を含む権利宣言が採択されていたが,そこでは,国家に先立つ人間の生まれながらの権利という人権の観念がないこと,権利の主体が人間一般ではなく労働者・農民に限られていること,自由・権利が抽象的に保障されているのではなく,その具体的な実現のための手段が確保されていること,権利の行使には勤労者の利益および社会主義制度の強化という目的制約が加えられていること,および基本的権利が同時に市民の基本的義務であるという権利と義務の不可分性が特徴として目につく。このことは,第2次世界大戦後に成立した,人民民主主義諸国の憲法の人権規定についても,あてはまる。
もともと基本的人権は国内の憲法問題として各国が自主的に処理してきたのであるが,国際交流の発展,ファシズムやナチズムによる大規模な人権侵害の経験は,人権保障の国際化を促進した。以前からも少数民族の保護,奴隷売買の禁止,亡命者・難民の保護,労働条件の改善と労働者の地位の向上などについての国際法上の協力または責務を内容とする個別条約があったが,人権の国際的保障が全面的な進展をみるのは第2次世界大戦以降である。国際連合はその憲章において,基本的人権と人間の尊厳および価値と男女および大小各国の同権とに関する信念を確認し(前文),人権・性・言語または宗教による差別なく,すべての者のために人権および基本的自由を尊重するよう助長奨励することについて国際的に協力することをその目的の一つとしている(1条)。1948年には人権委員会が作成した草案に基づいて,パリでの第3回総会において世界人権宣言が採択された。宣言は30ヵ条からなる。〈すべての人間は,生まれながらにして自由であり,かつ,尊厳と権利とについて平等である〉という第1条に始まり,伝統的な自由権,参政権に加えて,社会保障を受ける権利,労働基本権などの社会権をも保障している。世界人権宣言の趣旨に基づき,国際民間団体としてアムネスティ・インターナショナルが結成され(1961),政治犯の釈放や囚人の人権擁護などのために活動している。
世界人権宣言はすべての国が達成すべき共通の基準として布告されたのであって法的な拘束力を有しないが,これに補正を加え条約化したのが,66年12月16日の第21回総会で採択された国際人権規約である。これは〈経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約〉(A規約)と〈市民的及び政治的権利に関する国際規約〉(B規約)からなる。A規約は社会的基本権をおもな内容としており,締約国は規約の定める権利の実現のためにとった措置および権利の実現についてもたらされた進歩に関し報告義務を負う。B規約は,さまざまの自由権,平等権,政治参加の権利,少数民族の権利などを含んでいる。締約国はそれを国内的に実施する義務を負っており,報告義務があるほか,規約上設けられる人権委員会が一定の条件のもとで他の締約国からの通報を受理し,検討する権限を有する。日本は,79年A,B両規約に加盟した。
包括的な人権の保護とならんで個別的人権の保護に関する条約も少なくない。集団殺害を処罰するジェノサイド条約(1948採択),人種差別撤廃条約(1965採択),女子差別撤廃条約(1979採択)はその例である。なお,ヨーロッパ人権条約(1950成立)のような地域的な人権保障のための条約機構も国際的な人権保護のために重要な役割を果たしている。
人権とか基本的人権という言葉は固有の日本語ではない。明治初期の民権運動においてあらわれたほかは,human rights,fundamental human rightsの訳語として,第2次世界大戦後普及した言葉である。しかし,仏教思想や近世の町人,農民思想には,わずかながらも信教の自由,人間平等の観念または生存権に媒介される人権の理念が潜んでいたことは否定できない。それも人民に自由・権利を自覚させるに至らず,法制化には結びつかなかった。
日本における人権思想の展開は幕末維新期以降の西欧の立憲思想の移植に負っている。一時期〈天賦人権〉(天賦人権論)が語られ,人権保障の裏づけに抵抗権肯定の熱気さえ感じさせるほどであった。自由民権運動のなかで,民選議会開設の要求とならんで,どんなに人権保障の要求が強かったかは,明治10年代につくられた民間の憲法草案(私擬憲法)にあらわれている。特異な例であるが植木枝盛の作成した〈日本国国憲按〉(1881)には,人民の自由権利を制限する立法の禁止,思想の自由,教授の自由,歩行の自由,拷問の禁止,死刑の廃止,無法に抵抗する権利など斬新な内容の人権規定が多く含まれている。国民のあいだにみられた人権要求は大日本帝国憲法(1889公布)には十分反映されなかった。憲法の審議に際して,〈臣民の分際〉に改めてはどうかという森有礼の提案に対し,伊藤博文は,憲法で臣民の権利を列記せず責任のみを記載するのであれば,憲法を設ける必要はないとこたえている。この明治憲法は天皇を統治権者とする国体とだき合せに立憲主義をとり入れたのであって,国民の権利の保障はもともと制約のない君主の行政権の発動を法律によって制限する意味をもっており,それは人が生れながらに有する自然権ではなく,天皇から恩恵的に付与されたものと考えられた。まず,国民の権利は原則として〈法律の範囲内において〉保障され,あるいは〈法律によらなければ〉制限されないというように,〈法律の留保〉を伴った保障であった。権利保障の重点は法律による侵害に対する歯止めというよりは,行政権からの保護におかれていたということができる。また,裁判所に違憲立法審査権(違憲立法審査制度)が認められていなかったために,国民の権利を侵害する法律が制定されても,それを抑制する手段はなかった。なお,戒厳その他国家非常事態に際して,法律によらない権利保障規定の効力の停止または侵犯が認められた。明治憲法における国民の権利保障は,19世紀ヨーロッパとりわけドイツ憲法型の人権宣言の流れをくむものであって,外見的人権宣言の性格が強かった。憲法成立後も,普選運動,婦人参政権運動,労働運動,小作争議などを通じて人権獲得運動が続けられ,部分的には成果がみられるが,憲法上の国民の権利で具体的な法令により制限される部分がはるかに多かったのみでなく,その制限の範囲も法令運用の実際において十分守られたとはいえない。たとえば治安維持法が宗教を含む思想の弾圧に利用され,法律に基づかない逮捕・監禁がなされるなど,人権の無視と蹂躙(じゆうりん)はあとを絶たなかった。
〈言論,宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重〉の要求を含むポツダム宣言を受諾して,第2次世界大戦後の日本は再出発するのであるが,それは権力国家から人権国家への切換えを意味した。人間の尊厳と個人の尊重を社会の基本的価値とする個人主義の国家観の導入である。日本国憲法(1946公布)が保障する基本的人権は,〈人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたもの〉(97条)であり,憲法は,過去における人権抑圧に対する反省から,また諸外国における人権保障の成果に学び,20世紀半ばのもっとも充実した人権のカタログを整備している。
憲法第3章では,〈国民の権利および義務〉と題して,はじめに総則的規定(10~13条)がおかれ,法の下の平等(14条)が続き,参政権(15条),受益権(16,17条),精神活動および経済活動に関する個別的な自由権(18~24,29条),社会権(25~28条),刑事裁判に関する規定(31~40条)があり,ほかに国民の義務を定めた規定(26,27,30条)が含まれている。明治憲法に比べると,社会権としての性格をもった新しいタイプの人権のほかに,自由権にも思想および良心の自由,学問の自由などが加わっており,刑事手続に関して人身の自由が詳細に保障されているところに大きな特色がみられる。保障の手段と方法の面でも,法律の範囲内での保障から憲法上のそれへと高められ,裁判所が違憲審査権(81条)をもつことにより,人権の実質的な保護と救済の制度が整っている。
基本的人権は各国の歴史の産物であって,一定の理論的体系に従って配列されているのではない。個々の人権は,憲法制定時の社会の要請に応じて,あるいは諸外国の人権法制の影響を受けて,憲法に採択され,または後から追補される。しかし,一見雑多に見える人権も,一定の基準によって分類し,歴史的に成立する人権の類型ないし体系にしたがって整理することができる。まず,権利の性質およびそれと関連して権利の保障の方法のちがいに着眼して,(1)国家権力の介入を排除する消極的権利すなわち不作為請求権としての自由権,(2)国に対し積極的に権力の発動を求める作為請求権としての受益権,(3)国家権力の担当者として国家意思の形成その他の国家活動に能動的に参加する参政権に分けることができる。
次に,権利の内容に着眼して以下のような区別ができる。(1)権利・義務の両面にわたり差別的取扱いを受けない平等の権利,(2)国家権力の干渉を受けない,自由な生活を享受できる自由権,これはさらに,精神活動の自由(思想および良心の自由,信教の自由,表現の自由,学問の自由),経済活動の自由(職業選択の自由,財産権の不可侵)および人身の自由(法定手続の保障,不当な逮捕からの自由,刑事被告人の権利等。〈令状主義〉の項目を参照)に分かれる,(3)人間にふさわしい生存を保障する社会権(生存権,教育を受ける権利,および勤労者の団結権をはじめとする労働基本権),(4)人権を確保するために国に権力の発動を求める国民の受益権(請願権,国家賠償請求権,裁判を受ける権利),(5)国家の活動に参加する参政権(公務員の選定・罷免権,選挙権,国民投票への参加)。
憲法のかかげる人権のカタログは固定的・閉鎖的なものではない。社会の変化によって,既存の人権の保障で十分ではないことが明らかになれば,憲法改正によって新たな人権が補充されねばならない。ただ,既存の人権条項が新たな権利を基礎づけるに足る包括性と弾力性に富むときは,憲法を改正しなくても,状況に応じた読直しによって新たな人権を構成することができる。正当な理由なく私事を公開されないプライバシーの権利が幸福追求権(13条)に,自己または公共の利害に関する情報の提供または公開を求める〈知る権利〉が表現の自由(21条)に基礎づけられるのはそのためである。同じように環境権,平和的生存権,健康権なども提唱されているが,なかには明確な内容をもたず,その実現には立法による具体化を必要とするものも少なくない。
憲法はだれの人権を保障するのか。憲法は〈国民の権利〉を保障するが,すべての国民に対しすべての人権が一様に保障されているのではない。まず,天皇・皇族については,天皇の象徴としての地位および権能の特殊性ならびに皇位の世襲から考え,平等権その他の人権の適用に関し,必要最小限度の特例が認められる。また,憲法自身,国民の一部の者の権利を保障することがある。子どもの教育を受ける権利,酷使されない権利,勤労者の労働基本権,弱者の生存権などがそれであり,社会国家の実現を目指して国民の実質的平等を実現するための重要な手段である。女性や人種,信条,社会身分上の少数者に対する保護は法の下の平等(14条1項)をつらぬくことによって実現される。
人権は外国人にも保障される。ただし,外国人は国民とその地位を異にするため,保障される人権の範囲が限定され,保障される人権についても特別の制約をうけることがある。たとえば,日本に入国する自由や,国の政策決定またはその実施に影響を及ぼすような政治活動の自由は外国人には保障されない(1978年の最高裁判例)。
法人も人権の享有主体である。もともと人権は個人すなわち自然人の権利領域を国家の侵害から守るために主張され,そのようなものとして保障されたのであるが,社会の組織化が進み,法人その他の団体が活動の単位として社会に占める地位の重要性が増大するにつれ,人権の法人への適用がはかられるようになる。もちろん,法人にはその性質上生命,身体の自由,内心の自由のような自然人に固有の人権は適用されず,適用されるのは言論・出版などの外面的精神活動の自由,財産権,裁判を受ける権利のような集団的保障になじむ人権にかぎられる。最高裁は八幡製鉄政治献金事件の判決(1970)で,会社にも,個人と同様,政治献金のような政治的行為をする自由があると認めた。
基本的人権の侵害者はだれか,人権はだれに向けられているのか,人権の名宛人はだれか。ここで提起されるのが人権の私人間効力の問題である。伝統的な考え方によれば,人権はもっぱら国家・地方公共団体などの公権力に対する個人の防御権であって,私人や私的団体に向けられたものでない。私人間には,私的自治,〈契約の自由〉の原則を根幹とする独自の体系をもった私法が適用されたのであり,それに加えて,憲法の人権保障規定が適用される余地はなかった。身体の拘束が監禁罪となり,財産の侵害が財産罪となるように,重大な人権侵害行為が処罰を受けることはあっても,憲法上の人権保障とは無縁であった。今世紀に入り,とくに第2次世界大戦後の社会・経済の発展は個人主義的自由主義の社会構造に大きな変革をもたらし,国家と変わらないような機構と機能をもつ政治,経済,文化,地域団体などの巨大な社会組織を生みだし,多くの国民がこれらの社会的権力に従属するようになった。法律上対等な立場にある私人のあいだにおいても,〈契約の自由〉の名のもとに,実質的に一方の当事者の自由と権利が不当な制限を受けることがある。
そこで,これまで国家その他の公権力のみを名宛人とした基本的人権がいわば第三者の立場にある他の私人に対しても効力を拡大するのでなければ,人権の保障は十分なものとはいえなくなった。この問題を解決するには,いくつかの方法がある。第1に,労働基本権の保障のように,人権が民間労使のあいだで効力を有することが前提とされている場合,あるいは投票が公的にも私的にも責任を問われないとされているように,憲法自身人権の私人間の効力について明記するときは,問題はおこらない。第2に,男女同一賃金の原則を定め,強制労働を禁止する労働基準法や,各種の人種差別を禁止するアメリカの公民権法Civil Rights Actのように,私人間の人権侵害を防止するために具体的な立法措置が講じられることがある。第3に,上の方法で解決されないときは,憲法解釈により,人権規定を私人間に直接または間接に適用する人権の第三者効力が主張される。そのうち,公序良俗規定(民法90条)のような私法の一般条項または不確定概念を媒介として人権の価値を私法上も実現しようとする間接適用説が広範な支持をえている。結婚退職制度や男女の定年年齢差別はこの法理によって無効とされる。第4に,アメリカで行われている方法であるが,私人の人権侵害に国家権力がかかわり合っている場合,国家の行為の概念を広く解して,これに憲法を適用する。
職場や地域などの社会集団のなかで自由の抑圧・差別などの人権侵害をなくするには,上にあげたいずれかの方法をとるにしても,なんらかのかたちで国家権力の積極的な役割が期待されており,したがって,そこでは私的自治の原則との調整が重要な課題である。
ふつう人は国や地方公共団体とのあいだで一般的な法律関係または一般権力関係にあるが,特定の人々はそのほかに特別の法律関係または特別権力関係に立っている。特別の法律関係は,公務員や国・公立学校の学生のように,自由意思によって成立する場合と,受刑者の在監関係のように法律の規定に基づいて成立する場合がある。公務員の政治的行為が制限され,受刑者が身体の拘束に伴いもろもろの人権の行使を封じられるように,特別の法律関係に立つ人々に対し,一般の人に対しては認められないような人権の制約が加えられることがある。しかし,このような制約にも一定の限界がある。まず,そのような特別の法律関係が憲法によって根拠づけられたものでなければならない。つぎに,人権に関する特別の扱いは,特別の法律関係の性質から必然的にでてくる限度において,あるいは法律に基づきその法律関係を維持するのに合理的に必要な限度においてでなければならない。そして特別の法律関係の内部において人権の侵害が問題となるときは,法治主義の原理に従って司法的救済の途が開かれていなければならない。
法律の範囲内でのみ人権が保障されていた明治憲法と比べ,日本国憲法は人権の保障をいちじるしく強化した。しかし,そこにおいて,人権の制限はまったく認められないであろうか。憲法は,職業選択の自由(22条)と財産権の保障(29条)を除いて,個々の人権について保障の限界を示していないが,13条が一般的に生命,自由および幸福追求の権利について〈公共の福祉に反しないかぎり〉国政上最大限の尊重を義務づけていることから,人権はすべて公共の福祉に反するときは制限を免れないと解される。しかし,公共の福祉をもちだせば,どんな人権を,どのように制限してもよいのではなく,どんな人権を,どのような内容の公共の福祉によって制限する必要があるのか,具体的に検討しなければならない。
まず,公共の福祉はそのいとなむ作用からみて二つに分けられる。その一つは,〈自由とは他人を害しないすべてをなしうることだ〉といわれるように,人権の行使が他人の権利と衝突するところに限界を見いだすもので,社会秩序を維持するための自由国家的公共の福祉ということができる。社会関係のなかで成立する権利にこのような限界があるのは自明のことだから,これは権利内在的制約であるといってもよい。もう一つは,社会経済的な政策上の要請に基づくものであって,社会の福祉を増進するための社会国家的公共の福祉ということができる。この意味の公共の福祉によって制限されるのは,主として営業の自由,財産権などの経済活動の自由である。最初の意味の公共の福祉の内容が何であるかは,個々の人権の性質に従って個別的に決定しなければならないが,一般に人権が制限されるのは,反社会的行為として刑罰にふれるとき,衝突する他人の権利との比較衡量の結果,他人の権利が勝るとき,または公衆の健康,安全,道徳など社会公共の利益を害するときである。ただ,ばくぜんとした公共の福祉の概念を抽象的で包括的な国家的利益や社会全体の利益でおきかえ,かつての公益優先主義や全体主義に陥らないよう注意すべきである。そのため利益衡量論が登場する。すなわち,人権を制限することによって得られる利益とそれを制限しないことによってもたらされる利益とを比較衡量して,前者の利益が大きいとき人権の制限が正当化される。このようにして人権相互の矛盾,対立を調整する実質的公平の原理が公共の福祉の内容となる。たとえば,刑事裁判の証拠に報道機関の取材フィルムを提出させることができるかという問題については,一面において,裁判の対象となっている犯罪の性質,態様,軽重および取材したものの証拠としての価値,公正な裁判を実現するにあたっての必要性の有無を,他面において,取材したものを証拠として提出させられることによって報道機関の取材の自由が妨げられる程度およびこれが報道に及ぼす影響の度合などを比較衡量して決定しなければならない(1969年の最高裁判例)。しかし,利益衡量もそのつど無原則に行われると,人権の制限のほうに傾きやすい。対立する利益をどのような角度から秤(はかり)にのせ,どのような基準で比較衡量するのか,個々の人権に即して明確にしておく必要がある。
人権のなかには,思想・良心の自由,検閲からの自由,拷問の禁止のように,絶対的なかたちで保障されているものがあり,これらの人権については利益衡量の余地はない。表現の自由の制限について,その表現行為から重大な害悪が発生する明白で切迫した危険がなければならないという,明白かつ現在の危険clear and present dangerの原則が妥当するとき,あるいは表現の自由を制限する立法は明確な基準によるものでなければ憲法違反だとする明確性の理論が適用されるときも,上に準じた強い保障を受ける。つぎに,言論・出版などの精神活動の自由と職業選択・営業の自由などの経済活動の自由とを区別し,裁判所が人権規制立法の合憲性を審査する際に,審査の基準を分けて考えるべきだという〈二重の基準double standard〉の理論が重要である。表現の自由などには他の人権と異なる優越的な地位が認められ,その制限が必要なときでも,公共の福祉に対する危害の防止に必要な最小限度にとどめなければならないという厳格な基準による審査が加えられるのに反し,経済活動の自由に関しては,経済秩序の維持・増進または福祉政策推進のため,個人の経済活動に対する国の積極的な規制措置を認める必要があり,その措置が明らかに不合理な場合のほかは,裁判所も立法者の裁量を尊重しなければならないのである。
人権は憲法で宣言されるだけでなく,現実に保障されなければ意味がない。人権を確保するためには,人権侵害に対する予防措置,侵害行為の差止め・排除または事後の救済が効果的に行われる必要がある。人権の侵害はさまざまな方法で惹起され,それに応じて救済方法も一様でない。憲法は,人権の確保のための人権として,国家賠償・刑事補償請求権,請願権,裁判を受ける権利などを保障している。
立法府による人権侵害は,立法府が人権を侵害する法律をつくることによっておこる。それに対しては,請願その他の方法で法律の改廃を求めることができる。そのような法律が適用され現実に人権が侵害されたときは,司法上の救済を求めることができ,人権侵害立法は違憲・無効とされる。生存権のように国の積極的行為を要求する人権の分野では,立法の不作為または不十分な立法を違憲・無効とするだけでは,直ちに人権の救済に結びつかない。
行政機関による人権侵害には,適用法令が違憲の場合と合憲法令の解釈適用を誤って人権侵害を惹起する場合がある。行政機関による人権侵害に対しては,行政部内での不服申立てのほか,法務省人権擁護局・人権擁護委員などの特別の人権擁護機関に申し出て救済をはかることができるが,ここでも司法的救済が最終的でかつもっとも効果的である。
裁判を受ける権利や刑事手続における被告人の権利が裁判所により侵害されるときは,上訴を通じて上級裁判所の審査を受けることができる。一定の要件のもとに再審の門も開かれている。一般に,裁判所とりわけ最高裁判所は,法律をはじめとする一切の国家行為が憲法に適合するか否かについて審査決定する権利を有し(81条),憲法の番人といわれるが,この制度はとくに人権の保障を現実のものとするために重要である。
人権が侵害された場合の救済手段として人権を侵害する公権力に対する不服従または反抗を内容とする抵抗権が認められるかという問題がある。この権利は,初期の人権宣言および人権無視の圧政を経験した第2次世界大戦後の憲法に散見される。日本の憲法は抵抗権について規定していない。人権の保障自体を抵抗権の制度化とみることができる。これに対し,抵抗権の本質はそれが制度的に組織づけられていないことにあるから,憲法の保障する自由および権利が〈国民の不断の努力〉によって保障されねばならないとする憲法12条から抵抗権を読みとる見解もある。国民は権利のうえに眠ることなく,また権利の侵害に泣寝入りせず,権力の濫用または怠慢による人権の抑圧に対する不断の監視をおこたってはならない。基本的人権の究極の守護者は国民自身である。
→憲法 →立憲主義
執筆者:阿部 照哉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
人間である以上、かならずもっている権利をいう。単に人権あるいは基本権ともよばれる。個人はすべて生まれながらにして固有の、他人に譲り渡すことのできない権利をもっている。これが人権または自然権とよばれるものである。近代に入ってアメリカ合衆国の独立やフランス革命によって、個人の自由を守ることが国家の任務であるという思想(自由主義)が強まり、国家はそういう人権を守るために設けられるものであるから、国家はそれらの人権を侵すことはできない、だから人権は国家以前のものであると考えられた。アメリカやフランスの人権宣言はいずれもこのような人権を宣言し、保障した。
[池田政章]
人権は初めもっぱら自由権を意味していた。自由権は、国家権力の介入や干渉を排除して個人の自由を確保する権利で、自由権的基本権ともよばれる。人間の自由に対する欲求は生まれながらの人間性に内在するものであって、人間が個人の価値を確立するため獲得した最初の権利がこの自由権であった。思想の自由、宗教の自由、言論の自由、集会・結社の自由、居住・移転の自由、信書の秘密、住居の不可侵、財産権の不可侵などがこれに属すると考えられた。これに反して参政権は、人間として有する権利ではなくて、国家の市民(または国民)として有する権利として、初めは人権からは区別された。
20世紀になり、第一次、第二次世界大戦を経て、国民主権が確立され、国家の任務はすべての国民の生活を保障するにあるという思想(社会国家思想)が一般に浸透するにつれて、国民が政治に参加する権利、すなわち参政権や、国民がその生活を保障される権利(社会権もしくは生存権的基本権)もすべて人権のうちに含まれることになった。社会権や参政権は、自由権を前提にして確立されたものであり、その意味では自由権は人権のなかでも、もっとも基本的なものである。1948年12月10日国際連合総会で議決された世界人権宣言は、自由権のほかに参政権や社会権を人権のうちに含ませている。
[池田政章]
18世紀の終わりにアメリカ合衆国の諸州が世界で初めて成文憲法をつくったとき、同時に人権宣言を制定し、各種の人権を宣言し、保障した。これが例となって、その後各国の成文憲法には、つねに人権宣言に相当する規定の一群が置かれるようになった。このようにして世界各国は人権宣言をつくって人権を守ろうとしたが、交通が発達し、各国間の交渉が多くなるにつれ、人権を各国の憲法で守るだけでは不十分であり、国際法的にこれを守らなくては十分な効果が期待できないという考えが広まった。その結果、第二次世界大戦終結とともにできた国際連合は、人権の保障を非常に重くみて、その憲章にもその趣旨の規定が多い。さらに、先にあげた世界人権宣言は、それまで各国で定められた人権宣言の総まとめとも考えられて、全国家が「達成すべき共通の基準」であると述べている。ただ、これは単なる宣言にすぎず、法的な効力をもっていない。それを解決するためにつくられたのが、いわゆる国際人権規約(1976年発効)、つまり「経済的、社会的及び文化的諸権利に関する国際規約」(A規約)、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(B規約)、「市民的及び政治的権利に関する国際規約についての選択議定書」である。日本は1979年(昭和54)にA規約とB規約について批准したが、選択議定書などの一部については留保している。
[池田政章]
西欧諸国の人権宣言は、明治憲法にも大きな影響を与え、その憲法起草者である伊藤博文(いとうひろぶみ)自身も、権利の保障を伴わないならば憲法を制定する意味が失われるといったほどである。しかし、明治憲法は、天皇主権の原理に立脚し、天皇が神の権威に基づいて日本を統治するというたてまえをとったので、国民も天皇の統治に服する「臣民」と考えられ、固有の意味の人権は認められなかった。また、外国の人権宣言の影響を受けて、信教の自由、言論の自由、集会・結社の自由、居住・移転の自由、人身の自由、住居の不可侵、財産権の不可侵などを保障する規定が明治憲法にもあったが、法律でそれらを制限することが許され、実際に法律によって制限された。たとえば、人身の自由の場合、憲法の精神に沿って法律もできていたのにもかかわらず、実際にはそうした精神を無視した人権蹂躙(じんけんじゅうりん)が行われた。
[池田政章]
以上述べたような状態は、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法のもとですっかり変わった。すなわち、天皇主権にかわって国民主権が根本原理となるとともに、固有の意味の基本的人権がここで初めて認められた。
日本国憲法は、基本的人権の尊重をその根本原理とし、その第3章「国民の権利及び義務」で、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」(憲法11条・97条)としてこれを保障している。そこで規定されている基本的人権には、次のようなものがある。
[池田政章]
保障する対象によって、精神的自由権、人身の自由、経済的自由権に分けることができる。精神的自由権とは、国家権力から個人の精神の解放を保障する権利で、具体的には、思想および良心の自由(憲法19条)、信教の自由(憲法20条)、集会・結社および表現の自由(憲法21条1項)、学問の自由(憲法23条)、検閲の禁止・通信の秘密(憲法21条2項)が規定されており、明治憲法下におけるような思想のために罰せられるということはなくなった。
さらに、個人の身体がなにものからも、とくに国家権力から自由であることは、人間の最小限度の要求であって、憲法はこの人身の自由を保障するため多くの保障を設けた。そこには、奴隷的拘束および苦役からの自由(憲法18条)と法定手続の保障(憲法31条)、および被疑者・刑事被告人の権利(憲法37条)が保障され、厳しい要件を定めて国家権力の濫用を制限している(憲法32条~39条)。また、近代市民社会の確立のためには、経済の自由が確立されなければならない。日本国憲法も経済的自由権を保障したが、同時に自由主義経済の無制限な放任は社会の腐敗を招くので、この見地から公共の福祉による制限も認められている。職業選択の自由(憲法22条1項)、財産権(私有財産制)の不可侵(憲法29条)のほか、居住・移転の自由、外国移住の自由、国籍離脱の自由(ともに憲法22条)が、沿革的に経済的自由権に属するとされる。
[池田政章]
国民が政治に参加する権利をいい、具体的には議会議員の選挙権・被選挙権のほか、直接民主制的諸権利や請願権がこれに属する。日本国憲法は、国民主権を原理とし、政治のあり方を終極的に決めるものは国民であるとする。そこで、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」(憲法15条1項)と規定しているが、すべての公務員を選定・罷免することは実際には不可能なので、国会議員および地方公共団体の長と議員の選定権、最高裁判所裁判官の国民審査、地方公共団体の長と議員などの解職請求を認め、他の公務員は議会もしくは行政部によって選ばれることにしている。このことは代表民主制のたてまえから正当化されるが、代表民主制はともするとその機能が鈍化し、国民各層の要求や希望が伝達されにくいという弊害を生じやすいので、その通路を開く意味で、請願権(憲法16条)が規定されている。公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障し、かつ、選挙における投票の秘密を保障している(憲法15条3項・4項)。
[池田政章]
日本国憲法は新しく社会権を規定している。生存権、教育を受ける権利、勤労の権利などがこれである。まず、生存権の保障のため、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を規定(憲法25条1項)、その具体化として、生活保護法、国民健康保険法をはじめとする社会諸立法によって生活の福祉の増進が図られている。次に機会均等な教育を受ける権利と義務教育の保障が規定され、小・中学校の9か年の義務教育についてこれを無償としている(憲法26条)。また、生存権の実質的な保障のためには勤労の権利の確保が必要であり、憲法で規定(憲法27条)するとともに、国家は労働の機会提供について、職業安定法、雇用保険法などを制定し、労働基準法を設けて勤労条件に関する基準を定め、児童の酷使などを禁止している。なお、権利と同時に義務を負うことをも規定している。さらに、使用者の経済的優位に対抗して契約の実質的平等を確保するために、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」(憲法28条)を保障している。勤労者の団結権、団体交渉権、団体行動権(争議権など)を労働三権という。
[池田政章]
明治憲法のもとでは、裁判所は法令審査権(違憲立法審査権)をもっていなかったから、憲法の保障する自由権を侵害する法律ができたとしても、裁判所はそれをそのまま適用するほかはなかった。これに対して、日本国憲法ははっきり裁判所の法令審査権を認めている(憲法81条)から、かりに国会の多数で基本的人権を侵害する法律をつくったとしても、それに関連した裁判において、裁判所はそれを違憲としてその適用を拒否することができる。ただし、人権の種類によって違憲審査の基準は異なり、精神的自由は経済的自由より厳しく審査されるし(二重の基準の理論)、社会権の審査については国会の意思が尊重されることが多い(立法裁量)という違いがある。それでもこれによって基本的人権の保障は確実なものとなったといわれる。最高裁判所が「憲法の番人」であるといわれるのは、裁判所がこういう審査権によって、憲法の規定が国会によって破られるのを防ぐ役割を担っているからである。
[池田政章]
『東京大学社会科学研究所編『基本的人権』全5巻(1968~69・東京大学出版会)』▽『佐藤幸治・初宿正典編『人権の現代的諸相』(1990・有斐閣)』▽『戸波江二・安念潤司・松井茂記・長谷部恭男著『憲法2 人権』(1992・有斐閣)』▽『野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利著『憲法Ⅰ』第4版(2006・有斐閣)』▽『長谷部恭男他編『岩波講座 憲法2 人権論の新展開』(2007・岩波書店)』▽『高木八尺・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』(岩波文庫)』▽『阿部照哉・種谷春洋・佐藤幸治・中村睦男他著『基本的人権の歴史』(有斐閣新書)』
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(宮崎繁樹 明治大学名誉教授 / 2007年)
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人間が生まれながらにして持ち,譲ることができず,いかなる権力によっても侵すことのできない基本的な諸権利。ヨーロッパでは絶対君主に対する抵抗の過程で,イギリスの権利の宣言(1689年),アメリカの独立宣言(1776年)と憲法修正第1~10条(1791年),フランス革命の人権宣言(1789年)において定式化され,近代国家の基本的な原理として広まった。それには不当に身体の自由や財産を奪われないこと,宗教,良心,思想,言論,集会,結社の自由などが含まれていた。その後,民主主義の発展に伴い参政権が加わったが,この点では当初は女性は差別を受けた。また資本主義社会の発展に伴って,社会的・経済的不平等に対抗する労働者の団結権や教育権などの社会的権利が基本権に加えられるようになった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…なお,〈権利章典〉の内容をいっそう強化するために,〈軍罰法〉(1689),〈三年議会法〉(1694)が制定され,また〈権利章典〉に規定された王位継承が守られえない事態に対処して,1701年新たに〈王位継承法〉が制定され,ドイツのハノーファー家への王位継承を定めるとともに,〈権利章典〉の規定の補充が行われ,とくに裁判官の身分保障が規定された。【今井 宏】
[アメリカの権利章典]
アメリカの憲法典には,基本的人権を保障する規定が必ず置かれている。州によっては,憲法典を,統治機構に関するFrame of GovernmentまたはForm of Governmentと,人権に関するBill of RightsまたはDeclaration of Rightsの,二つのそれぞれ独立の文書とし,条文番号もそれぞれ別に付している例もある。…
※「基本的人権」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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