すべての人間は権力も奪うことができぬ一定の権利をア・プリオリに賦与されているという,明治前期に展開された思想。原始儒教的な宇宙万物の主宰としての天の観念,あるいは人間にはア・プリオリに道徳性が賦与されているという儒教的な観念などを媒介として,近代西欧の自然権natural rightsの観念が導入されたところに成立した。天賦人権の思想は,明治初年に福沢諭吉や加藤弘之ら啓蒙思想家によって,対外的独立を達成するために,封建的身分制を打破して人民全体を国家の主体的担い手に高めるという意図と結びついて主張されはじめた。新政府の指導者も,封建的身分制と割拠制を克服して中央集権的国家体制を確立するという関連で,この思想を受け入れ利用した。やがて勃興した自由民権運動においては,〈有司専制〉政府を打倒し,国会を開設して〈君民の一致〉と国家の独立発展を実現するという企図のもとで,天賦人権論が盛んに唱えられる。これにつれて,政府の側はこの観念を打破することに狂奔する。進化論的な論理によりつつ天賦人権の存在を否定した加藤の《人権新説》(1882)はこの線に沿った著作である。この後まもなく民権運動が解体すると,天賦人権の思想も急速に消滅していく。19世紀の西洋では自然法思想に代わって功利主義,実証主義あるいは歴史主義の思想が興隆し,これが日本にも広く流入していたこと,天賦人権論の成立を媒介した儒教的諸観念が漸次解体したことがその原因であったと思われる。
ところで,人権には人身の自由,良心の自由,財産権といった私的権利と,参政権など政治的権利が含まれる。明治の日本では,対外的危機を克服するために人民全体を国家の主体的担い手に高める,ないしは国会を開設して国民の一致を達成するという関連で,権利の観念が展開したため,西欧とは逆に,政治的権利が時間的にも価値的にも私的権利に先行した。民権運動の解体後に,かつて天賦人権論を説いていた人々が比較的簡単に天皇制国家に統合されていくことはこの点と関係がある。
執筆者:植手 通有
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17、18世紀の近代国家成立時に民主主義政治原理として欧米において唱えられた自然権natural right思想の訳語。社会契約説に儒教の自然や天の理念を結び付けて構成した日本版人権・国家思想。福沢諭吉(ゆきち)や加藤弘之(ひろゆき)は、この語を用いて封建的身分制の打破を叫び、明治政府は自由・平等な人民の同意によって設立された政権であるとしてその正当性を弁証した。しかし、明治政府の実態が藩閥政府であることが明らかとなり、国会開設や参政権の獲得を求める自由民権運動が高揚するなかで、加藤は天賦人権論の否定者となった。こうした加藤の転向は、彼自身が明治政府に仕えたことにもよるが、それよりも彼の天賦人権論理解の弱さにその原因を求めることができる。そもそも欧米の社会契約説においては、個人の権利・自由をよりよく保障するためには人民の政治参加が不可欠であると考えられ、そのことが議会政治の発達を促した。これに対し、加藤は、日本のような文明の遅れた国では選挙権の賦与は時期尚早であると主張し、国会開設に批判的態度をとった。そして『人権新説』(1882)では、生存競争、適者生存、自然淘汰(とうた)という進化論を用いて、人間は生来不平等に生まれついていること、したがって自由・平等な人間が契約によって政府を設立したという社会契約説は妄想であるとして、天賦人権論そのものを否定してしまった。これをめぐって加藤と植木枝盛(えもり)、馬場辰猪(たつい)、矢野文雄、外山正一(とやままさかず)らとの間でいわゆる「人権新説論争」が展開された。その後プロイセン憲法に範をとった大日本帝国憲法が制定され、儒教道徳に基づく封建的な忠孝思想がふたたび隆盛となるなかで、天賦人権思想は国家主義思想の前に大きく後退してしまった。
[田中 浩]
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明治期の自由民権論の基礎となる基本的人権の主張。人間の自由権は国家から付与されるものではなく,天から与えられた人間固有の権利であるとするもので,natural rightの日本的理解。1867年(慶応3)の福沢諭吉の「西洋事情」,75年(明治8)の加藤弘之(ひろゆき)の「国体新論」などの啓蒙書で紹介され,身分制秩序の否定の役割をはたしたが,当初は国家を支える自主的精神論の側面が強かった。自由民権運動が始まると思想的基礎理論となり,植木枝盛(えもり)の徹底した民主主義思想である抵抗権・革命権などを生む役割をはたして,民権論の深化・発展に貢献した。82年には加藤弘之が「人権新説」を著し,天賦人権論を否定したため,矢野文雄・馬場辰猪(たつい)・植木枝盛ら民権思想家が反論の書を刊行している。
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…大石,末広らと独立党を結成した。同年《天賦人権論》を刊行して加藤弘之の《人権新説》を批判。85年爆発物取締罰則違反で逮捕され,翌年無罪放免後,渡米。…
※「天賦人権論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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