改訂新版 世界大百科事典 「神尾春央」の意味・わかりやすい解説
神尾春央 (かんおはるひで)
生没年:1687-1753(貞享4-宝暦3)
江戸中期の幕臣,勘定奉行。五郎三郎,若狭守。下嶋為政の次男として生まれ,神尾春政の養子となる。1701年(元禄14)遺跡(200俵)を継ぐ。腰物方,桐間番,腰物方,細工頭,賄頭,納戸頭を歴任し,36年(元文1)勘定吟味役へ進み納戸頭の上席となる。翌年勘定奉行に昇進し,同年勝手掛老中に就任した松平乗邑(のりさと)の下で年貢増徴につとめた。44年(延享1)みずから畿内・中国筋を巡察し,有毛検見(ありげけみ)取法と田方木綿・雑事勝手作法を施行して年貢を増徴した。そのさい神尾は,ふらちな者は5000人,7000人でも死罪以下の重罪に処すと,あらかじめ百姓の抵抗をくじき,ついで〈法は人間よりも重く,法の次は人,穀類抔(など)よりは人間は大切,其大切よりも法は重く候〉と,権力の発現たる法を人間に優先させ,〈胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るもの〉という,徹底した増徴主義の論理を告げた。また運上・冥加銀の新設,隠田の摘発,自普請への切替えを推進した。これに対して摂河泉播州の百姓は〈惣公無民〉の徴租であるとして,翌年には2万人を超える愁訴を展開し,ついには禁裏へも訴願した。同年乗邑が失脚したのにつづき,翌46年それまで春央の専管であった金銀銅山掛,長崎掛,村鑑,佐倉小金牧,新田方掛,検地奉行,勝手方などが,勝手方の共同取扱いとされた。53年67歳で没したが,この間1500石にまで加増された。
執筆者:森 杉夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報