神領村(読み)じんりようむら

日本歴史地名大系 「神領村」の解説

神領村
じんりようむら

[現在地名]神山町神領

鬼籠野おろの村の西に位置し、西は上山かみやま下分しもぶん、北は阿川あがわ村。周囲を山に囲まれ、とくに南の勝浦かつうら郡境は高く険しい。鮎喰あくい川は上山村下分から当村に入り、中央部を東流、中津なかづからは北流して滝津たきづ峡谷を過ぎ、小野おのから阿川村に至る。この間に高根谷こうねたに川・野間谷のまたに川・上角谷うえつのだに川などの支流が流入する。地名は当地に鎮座する上一宮大粟かみいちのみやおおあわ神社に由来するとみられる。中世は大粟山(大粟郷)のうち。「山科家礼記」文明一三年(一四八一)正月一六日条によれば、阿波国一宮神領のうち山分の親名として三名がみえ、このうちぬま名は当地の野間のま長蔵ながくら名は当地の長倉ながくらに比定される。

慶長一三年(一六〇八)五月一一日の名西郡大粟谷神領分検地帳(大粟家文書)によれば、当地は一四村に分れ、田畠居屋敷一四六町八反余・分米一千三四二石余。同検地帳は鬼籠野村分も含み作成されている。寛永一五―一八年(一六三八―四一)頃の作製と推定される阿波国大絵図に村名がみえ、正保国絵図では高五七八石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三四〇石余・畠方二三七石余、芝山・小はへ山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高二千五八石余。「阿波志」によると青井夫あおいぶ・上角・小野・大窪おおくぼ(大久保)大野地おおのじ(大埜地)・筏津・野間・きたたにの九名があった。


神領村
じんりようむら

[現在地名]打田町神領

しん村の北に位置し、北は東山田ひがしやまだ村、東は重行しげゆき村、西は海神うながみ川を境に北中きたなか村に接する。「続風土記」は「此地海神社の神戸なるを以て神領といふ」と記す。中世は池田いけだ庄に含まれた。

慶長検地高目録によれば高三〇七石余、小物成六升五合。慶長六年(一六〇一)の神領村御検地帳写(田中家文書)では内訳は田方二七五・六八三石(一七町二反余)、畠高三一・六九石(二町五反余)で、家数三〇。池田組に属し、元禄二年(一六八九)の池田組指出帳(田中家文書)では総高はあまり変化がないが、田高が増えて畑高が減っている。


神領村
じんりようむら

[現在地名]大津市神領一―三丁目・野郷原のごうはら一―二丁目・三大寺さんだいじ大江おおえ二丁目・同六丁目・瀬田せた一丁目・瀬田神領町せたじんりようちよう

橋本はしもと村の東にあり、村の北を東海道が通る。近江一宮建部たけべ大社の神料田となっていたことから地名が起こったという。近江国府域に含まれていたと推定され、その関連遺跡が多い。古代・中世には勢多せたの内として推移したとみられる。天正一一年(一五八三)八月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)では勢田郷に含まれていたと考えられる。江戸期を通じて膳所藩領。


神領村
じんりようむら

[現在地名]春日井市神領町

北は内津うつつ川を隔てて下市場しもいちば村、南は牛毛うしげ村、東は庄内川に沿う。「尾張国地名考」に「この地、往昔農人なく只社家のみ、七・八戸許居住みたり。よつて神領村の名あり。然るに足利の末に滅亡て年貢地に成」とある。この地には神官が住み今の屋敷田やしきだという地内に禰宜山ねぎやまとよぶところがある。この屋敷田のことを一般に「わせだ」という。これは三明神に供えるための神饌米と称する早場米を神官たちが作っていた田の呼名であるという。向拝こうはいという地は向拝殿の古跡であるといい、熱田神宮(現名古屋市)内々うつつ神社に向かって拝んだところである。


神領村
じんりようむら

[現在地名]宇和町卯之町うのまち

宇和川と根笹ねざさ川合流点南部の村。東は松葉まつば(卯之町)、西は野田のだ村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「神領村 茅山有、日損所」と記される。久枝ひさえだ村庄屋の支配下にあったが、寛保元年(一七四一)八月村が困窮して村民が離村を藩に訴えたので、藩は当村を卯之町庄屋鳥井半兵衛の支配に移管した(東宇和郡沿革史)。村名は三島神社の神領の意と考えられる。

太閤検地の石高は九五石六斗三升の小村で、耕地面積の比率は田八五パーセント、畑一五パーセント。


神領村
じんりようむら

[現在地名]大崎町神領

大崎郷益丸ますまる村の北にあり、南西は同郷仮宿かりじゆく村。田原たばる川下流沿岸の低地とその西方のシラス台地上に位置する。益丸村内に飯隈いくま高尾たかおの飛地があり、高尾は海(志布志湾)に面して海岸に沿って松林(現在のくにの松原の一部)が連なっていた。北東菱田ひしだ村から南西へと志布志しぶしからの道が通る。古くは益村のうちで、文禄検地以後菱田村・神領村・益丸村に分れたとされ(三州御治世要覧)、寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では益丸村として一括される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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