禅宗寺院建築(読み)ぜんしゅうじいんけんちく

改訂新版 世界大百科事典 「禅宗寺院建築」の意味・わかりやすい解説

禅宗寺院建築 (ぜんしゅうじいんけんちく)

栄西は禅宗を宋から伝え,新しく博多聖福寺(1195・建久6),鎌倉寿福寺(1199・正治1),京都建仁寺(1202・建仁2)を創立した。これらは伽藍配置や建築の一部に宋様式を伝えたとみられるが,寺の教派は密教などを兼ね,純粋な禅宗寺院とすることを避けていた。その後,京都東福寺が弁円により1236-73年(嘉禎2-文永10)に,鎌倉建長寺が宋僧蘭渓道隆により1248-50年(宝治2-建長2)に建立されると,禅宗寺院は宋様式を模すことが正式になった(宋代美術)。律宗でも京都泉涌(せんにゆう)寺(1219・承久1)は宋様による寺とされていた。京都と鎌倉に五山十刹(じつせつ)の制ができ,諸山の格などが整って全国に禅宗寺院が普及すると,特に臨済宗では一定の原則で建立されるものが多くなった。禅宗の理想として南宋五山の伽藍と自然環境の境致を模し,僧の生活も宋の禅宗のきまりである〈清規しんぎ)〉を守ろうとしたのである。そこで禅宗文化は教義や戒律のみでなく,生活文化や芸術活動をふくむ総合体系として取り入れられ,その場を形成する要素として禅宗建築形式は後々まで遵守された。五山は国家鎮護の道場として朝廷と幕府の官寺格となって手厚く造営され,伽藍も完備した大規模なものとなった。

 禅宗寺院の伽藍は,背面に丘を負い前面へゆるい勾配で下がる寺地に,古代伽藍同様に中心軸上に総門,三門(山門),仏殿,法堂(はつとう)を配する。三門から回廊が出て前庭を囲み,仏殿または法堂に達する。回廊の東には庫院(くいん),浴室,東司(とうす)など,西には僧堂,西浄(せいちん)/(せいじよう)などが配される。法堂の北には方丈や客殿があり,伽藍周囲には塔頭(たつちゆう)と呼ばれる子院が置かれた。仏塔は中心部ではなく伽藍後方の高みに建てた。初期の伽藍はすべて失われ,現在は南北朝以後の再建堂塔しか残っていないが,建長寺,円覚寺,聖福寺などに伽藍図が伝えられ,盛時の姿を示している。これらによると総門は比較的小さく,内に半円形や長方形など幾何学的な形の泮池(はんち)を穿ち,三門は古代寺院の中門にあたり,重層五間門で上層に仏壇を設け,諸仏や高僧などの像をまつる。仏殿は古代寺院の金堂にあたり,本堂,大雄殿(だいゆうでん)とも呼ばれる。大寺のものは本体は五間に裳階(もこし)つきの大型堂で,中央の天井を高く張り,宋で発達した減柱造で内部柱を少なくして広く高い空間をつくり,組物は唐様三手先詰組(みてさきつめぐみ)とし,外観は重層の立派なものであった。初期の仏殿は現存していないが,広島不動院金堂はその面影を伝えるものである。他寺は三間裳階つきや三間仏堂が多く,鎌倉円覚寺舎利殿や下関功山寺仏殿がこの形の代表例である。法堂は古代寺院の講堂にあたり,一山の僧が集会する大堂で初期伽藍には必ず備えられたが,中世以後は再建されないものも多く,現存例は大徳寺,妙心寺などである。五間堂に裳階をめぐらし,内部は広い一室とする。法堂の背後には方丈あるいは客殿など,住持の住房や高位の客の接待所があり,自然地形を利用して庭園も設けられた。中心伽藍の東西には食堂(じきどう)や大炊殿(おおいどの)にあたる庫院,衆僧が座禅をする禅堂がおかれ,これらに付属して浴室や便所である東司,西浄,後架(こうか)などがあった。三門の脇には経蔵,鐘楼,鼓楼がおかれ,経蔵には内部に回転式の輪蔵(りんぞう)をもつものもあった。

 伽藍建築は配置のみでなく,構造や細部も南宋禅寺の様式を忠実に模したといわれるが,12世紀の遺構はなく,実態にわからない点が多い。現存遺構は13世紀からのもので唐様(からよう)または禅宗様といわれる。南宋様式を日本人の感覚と技術で再構成した,繊細で技巧的な形でおおよそ統一されている。塔は五山十刹には残らず,長野県安楽寺八角三重塔が本格的な禅宗様仏塔として唯一で特異なものであるが,山口県瑠璃光寺五重塔や広島県向上寺三重塔など和様を主体とした塔が多かったらしい。塔頭は高僧が子院に住み弟子,従僧をもつことから,高僧の墳墓を院内につくり,その墓塔を弟子が守り拝礼する昭堂などがおかれ,子院を継承するようになって定着した。住持の居室と客殿を兼ねた方丈と,政所(まんどころ),食堂,厨房,従僧居室を兼ねた庫裏(くり)とが組み合わされて主体となる。この組合せは,地方寺院に宗派とは関係なく伽藍形式として取り入れられた。禅宗建築では,門,仏殿,方丈などに二階も実際に使用できる構造がとられ,楼閣建築や二・三階建ての普及源となった。江戸初期に伝えられた黄檗(おうばく)宗は禅宗の新派で,建築としては明代の様式を伝え,仏殿の前面を吹放しとしたり,細部にも明代の装飾的特徴を示すものが多い。京都黄檗山万福寺や長崎崇福寺などが代表的遺例である。
黄檗美術 →唐様
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世界大百科事典(旧版)内の禅宗寺院建築の言及

【鎌倉時代美術】より

…栄西以降,禅を学ぶ入宋僧があいつぎ,中国人禅僧の来日も増えた。中期(14世紀半ば)には,鎌倉に建長寺,円覚寺,京都に東福寺,南禅寺が創建され,中国禅寺の風を模倣した伽藍が出現した(禅宗寺院建築)。禅寺特有の伽藍の構成と建築の様式は宋代中国の建築に範をとった技術と意匠からなり,これは禅宗様(唐様)と呼ばれた。…

【寺院建築】より

…大建築の場合だけ当初の天竺様に近い形式を用いた。 禅宗は思想,芸術,生活様式の総合体系として移入され,寺院の環境として南宋の五山のような境地を実現することが重視されたので,伽藍配置や建築構造と細部の表現が後までよく守られ,かつ日本的な精緻なものに消化され再形成された(禅宗寺院建築)。配置は古代伽藍の中軸線を重視する方式に帰り,中心の仏殿は,外観は重層に見え,柱が高く内部空間も見上げるような高さを志向する。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」