改訂新版 世界大百科事典 「黄檗美術」の意味・わかりやすい解説
黄檗美術 (おうばくびじゅつ)
江戸初期の黄檗宗の渡来は,当時最新の中国文化を日本に紹介するうえで大きな役割を果たしたが,美術の分野でもその足跡は建築,彫刻,絵画,書,工芸の各分野に及んでいる。建築ではまず,長崎の居留民のために崇福寺,福済寺,興福寺などがつくられた。崇福寺の第一峰門(1644),大雄宝殿(1646)がその代表的遺構であり,渡来工人による明代の寺院建築の意匠,彩色が強い異国風を感じさせる。黄檗寺院はさらに僧隠元が,幕府の庇護のもと,宇治の万福寺を創建(1661)したことにより,京都にも伝わった。これはかなり和様化されているが,伽藍配置など隠元の故国の福州万福寺にならってつくられたものであり,総門から山門,天王殿,仏殿,法堂を中心線上に配し,鐘楼,鼓楼,伽藍堂,祖師堂,斎堂,禅堂,東西方丈を左右相対的に配列し回廊で結んでいる。棟につく宝珠形,化粧屋根裏,虹梁などの明清風の建築装飾に特色がある。黄檗建築の様式は,各地の黄檗系寺院にひろまったが,江戸時代の建築全般に影響を与えるまでには至らなかった。これら黄檗寺院には,中国人仏師范道生による木彫の韋駄天像や布袋・羅漢像などが置かれたが,濃厚な色やユーモラスな表情に,中国民衆の宗教感情を反映させたこの明末仏像の作風もまた,日本の仏像彫刻に刺激を与えた。松雲元慶の五百羅漢像(1695)は黄檗彫刻の影響によるすぐれた作例であり,円空や木喰明満の鉈彫にも,黄檗彫刻の要素が認められる。
絵画の分野では,黄檗画像がまずあげられる。これは,隠元,木庵,即非など,渡来した黄檗高僧の頂相(ちんそう)で,17世紀後半から18世紀にかけおもに長崎で描かれた。伝統的な頂相の手法とは異なり,赤や黄の原色の法衣をまとった真正面向きの像で,その顔には西洋風の陰影を施しきわめて写実的である。これはヨーロッパ絵画の手法を取り入れた当時の中国の肖像画法が日本にもたらされたものと考えられ,江戸時代洋風画史の特異な1ページを飾っている。画家としては,掲道貞,喜多宗雲,喜多元規,喜多元喬,河村若芝らが知られる。また渡来した黄檗僧たちは,文人の墨戯としての四君子画や,略筆の観音像を得意とするものが多かった。隠元より早く来日し,隠元を日本に招くのに貢献した逸然は観音像を手がけ,万福寺15代住持の大鵬正鯤(たいほうせいこん)(1691-1774)の墨竹はなかでもすぐれている。長崎出身の僧鶴亭(?-1785)はこうした墨戯を上方画壇にひろめる役割を果たした。黄檗像の墨戯に見る自由な画境は,かれらが中国からもたらした元明画や画論書などと相まって,南画の発生と展開に少なからず貢献した。
このほか書の分野でも,隠元,木庵,即非ら黄檗高僧の書風が他宗の僧にも取り入れられ知識人の間にもてはやされて唐様の普及の原動力となった。また煎茶器も黄檗美術の一環として考えられるなど,江戸後期における黄檗美術の影響範囲はひろい。
→長崎派
執筆者:辻 惟雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報