須磨の海浜から約一キロ、
南北朝期から江戸時代にわたって歴代住職が書継いだ当山暦代(寺蔵、県指定文化財)は巻首を欠くが、これによると当寺本尊である等身坐像の聖観音は摂津源氏相伝の念持仏で、嘉応元年(一一六九)源頼政が澄憲を本願として当寺に安置、寺領三ヵ所を寄進したという。当時は薬師・観音両仏を本尊とし、坊舎一二宇があったが、寿永二年(一一八三)から翌年にかけての源平の兵乱で縁起・記録類などが奪われ、貞応元年(一二二二)薬師像は須磨村の所望で村に付与された。延文五年(一三六〇)には三三体の仏像の半分と経典・法具の大部分、金堂・釈迦堂・鐘楼・鎮守が焼失するという大火に見舞われ、本尊はかろうじて罹災を免かれたものの、この時に多くの僧侶が離山して寺は荒廃した。翌康安元年(一三六一)には兵庫中庄の禅宗
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
神戸市須磨区にある真言宗須磨寺派の本山。上野山と号する。通称は須磨寺。寺伝によれば,天長年中(824-834)和田岬の沖で漁師の網にかかった聖観音を小堂に安置したことに始まり,886年(仁和2)光孝天皇の勅をうけて文鏡が現在地に建立したと伝える。久寿年中(1154-56)源頼政が寺領を寄せ,堂舎を再興したが,源平争乱の戦場となったため荒廃した。1360年(正平15・延文5)堂塔の大半を焼失し,住侶の離れが相次いだが,住持明真により復興がすすめられ,堂舎の造営や造仏も数年を経て完成した。1371年(建徳2・応安4)には復興のための勧進猿楽も興行されている。1596年(慶長1)の地震で寺内が大破したときは,豊臣秀頼の援助で再興された。中世には延暦寺東塔に属したが,江戸時代真言宗に転じ,寺領は16石4斗余であった。一ノ谷に近く,中世末期から源平合戦ゆかりの寺として有名で,平敦盛の青葉の笛など遺品の展観も盛んに行われていた。本堂内の宮(くう)殿は1368年(正平23・応安1)の寄進で,同時期の仏像や絵画などが所蔵されている。第2次大戦後,独立して真言宗須磨寺派の本山となった。
執筆者:西口 順子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
兵庫県神戸市須磨(すま)区須磨寺町にある真言(しんごん)宗須磨寺派の大本山。山号は上野山(じょうやさん)。通称須磨寺。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。寺伝によれば天長(てんちょう)年間(824~834)漁師が神戸の和田岬の海中から檀木(だんぼく)の聖観音像を引き上げ会下山(えげのやま)に安置して北峰(ほくほう)寺と称した。886年(仁和2)光孝(こうこう)天皇の霊夢により、聞鏡上人(もんきょうしょうにん)に勅して堂塔伽藍(がらん)を建立し安置したのが開基と伝える。その後幾たびか盛衰があったが、源頼政(よりまさ)、豊臣秀頼(とよとみひでより)が中興し、江戸時代には寺領十六石四斗を有していた。明治維新後衰えたが、1887年(明治20)以降復興した。本堂内宮(ないくう)殿および仏壇、木造十一面観音立像、絹本着色普賢十羅刹(ふげんじゅうらせつ)女像は国の重要文化財。また平敦盛(あつもり)の愛蔵した青葉笛など源平関係の遺品がある。境内には義経(よしつね)腰掛松、敦盛首塚、敦盛と熊谷直実(くまがいなおざね)の一騎討ちの場面を再現したという源平の庭がある。また古来、文人に愛された寺で、多くの句碑・歌碑が立つ。毎月21日の弘法大師(こうぼうだいし)(空海)の縁日はにぎわう。
[祖父江章子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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