(1)幸若舞曲の曲名。作者,成立年次不詳。上演記録の初出は1567年(永禄10。《言継卿記》)。熊谷直実は一ノ谷合戦で心ならずも平敦盛を討つことになり,敦盛の父経盛に遺骸と遺品を届け書状を取りかわす。無常を感じた直実は法然上人を師として出家,蓮生坊と名乗って敦盛の菩提を弔い,高野山蓮華谷智識院で大往生を遂げる。同じ説話は《平家物語》諸本にみられ,《源平闘諍録》に敦盛を討つのは皆輪次郎,直実が討つのは平成(業)盛とするなど異伝もあるが,比較的近い内容を持つのが延慶本。謡曲《敦盛》,《形見送(経盛)》(廃曲)も同材だが,本曲は発心譚的色彩が濃い。織田信長は田楽狭間の合戦に際し,本曲の一節〈人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり,云々〉を舞って出陣した(《信長公記》など)と伝えて有名。また,室町期の物語草子や古浄瑠璃に敦盛の遺児を主人公とする《小敦盛》があり,謡曲に《生田敦盛》がある。
執筆者:山本 吉左右(2)能の曲名。二番目物。修羅物。世阿弥作。シテは平敦盛の霊。僧となった熊谷直実(ワキ)が,ふたたび須磨を訪れると,笛の音が聞こえ,草刈りの若者たちがやってくる。〈樵歌牧笛(しようかぼくてき)〉の故事などを話題に言葉を交わしたが,若者の一人(前ジテ)は実は敦盛の霊の仮の姿であった。熊谷が夜もすがら念仏を唱えて弔っていると,敦盛の霊(後ジテ)が昔の姿で現れ,平家都落ちの感慨を物語り(〈クセ〉),思い出の舞を舞い(〈中ノ舞〉),戦死前後の様を述べ(〈中ノリ地〉)などするが,弔いを喜び,恨みを捨てて去って行く。クセ・中ノ舞・中ノリ地が中心。修羅の苦しみは強調されず,風雅に可憐な趣き。
執筆者:横道 万里雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
能の曲目。二番目・修羅物。五流現行曲。『平家物語』に拠(よ)った世阿弥(ぜあみ)の作。一ノ谷で16歳の平敦盛を討った熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、出家して蓮生(れんせい)法師(ワキ)となり、須磨(すま)の浦に下ってくる。草刈り男たち(前シテとツレ数人)の草笛の音にひかれ、蓮生はことばを交わし、1人残った男は弔いを願って消える。後シテは敦盛の亡霊が可憐(かれん)な武装で現れる。平家の一ノ谷の生活を語り、寄せ手を前にしての優雅な詩歌管絃(しいかかんげん)の遊びのありさまと、戦死の無念さを再現する。かつての敵もいまは法(のり)の友と、その弔いを受けて現れているものの、最期の怨念(おんねん)に亡霊は蓮生に太刀(たち)を振り上げるが、ふたたび心を翻して消えうせていく。修羅道の苦がまったく描かれていないのも特色である。類曲『生田敦盛(いくたあつもり)』では忘れ形見が子方として登場、父敦盛の霊と対面する。なお、織田信長が桶狭間(おけはざま)の奇襲にあたって舞ったのは幸若(こうわか)舞の『敦盛』。歌舞伎(かぶき)の『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』では、熊谷は敦盛の身替りにわが子小次郎の首を打つ趣向となっている。
[増田正造]
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
…一所懸命の地を守り,侍の身分であることを誇りとした東国武士の典型である。なお《平家物語》では,直実が出家したのは,一ノ谷合戦で平敦盛を討ち取ったことによるとしているが,これは史実ではない。【細川 涼一】
[伝承と作品化]
熊谷直実は実在した武将であるが,伝承の世界でも話題に事欠かぬ人物である。…
※「敦盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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