朝廷の定めたものでない年号。偽年号、異年号などともいう。古代にも公式の元号でない年号は存在するが、それらの多くは、後世につくられた架空の年号である。これに対して、中世には戦乱・飢饉(ききん)などが原因となって、改元=代替わりの期待から、人々の間に改元待望が高まることがあった。こうした背景のもとで、現在知られているだけで30以上の私年号が用いられたが、その多くは、つくった人間かそのごく近い範囲で短期間使用されたにすぎない。しかし、15世紀後半以降、関東公方(くぼう)と室町幕府の間に激しい対立が生じ、京都から東国への改元伝達ルートが混乱すると、しばしば広範囲に使用される私年号が出現する。福徳(ふくとく)(1491ころ)、弥勒(みろく)(1507ころ)、命禄(めいろく)(1542ころ)などがそれで、いずれも富貴の代、弥勒の世を待望する気持ちが年号の名前に込められており、残存史料が過去帳、経典、板碑(いたび)などの宗教史料のなかに多いことから、私年号をつくった人間はおそらく多くは僧侶(そうりょ)であろうと想像される。しかし、私年号を使用した人々は、これを元号そのものと考えて使っていたのであって、私年号を使っているからといって、ただちに京都に対する自立の意志の表現だとするわけにはいかないだろう。
[千々和到]
『久保常晴著『日本私年号の研究』(1967・吉川弘文館)』
朝廷が正式に定めた年号以外の実際に用いられた年号。平安末期の保寿(ほうじゅ)(1167年頃)が狭義の私年号の最初とされる。中世前期には和勝(わしょう)(1190年頃)や建教(けんきょう)(1225年頃)などが用いられたが,使用された階層や範囲はごく限られていた。戦国期の東国では,民間層でかなり広範囲に使われた私年号が存在する。延徳(えんとく)(1462年頃),福徳(ふくとく)(1491年頃),弥勒(みろく)(1507年頃),命禄(めいろく)(1542年頃)などがおもなものである。資料的には板碑(いたび)が最も多く,そのほか過去帳・年代記・仏像銘・鰐口(わにぐち)銘・巡礼札など宗教的性格のものに多くみられるのが特徴である。広範囲に使われた背景には,民衆の天災・飢饉・戦乱からの救済願望があったと推測される。私年号の発祥地・考案者や伝達ルートについては未詳。江戸・明治時代にも若干ながら私年号が用いられることがあった。なお広義には,朝廷が正式に定めた年号以外のすべての年号をさし,異年号・偽年号・逸年号をも含む。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…天皇の制定施行によらずに国内の一部で作成使用された年号。私年号ともいう。日本最古の異年号は621年(推古29)に当たる法興であって,かつてこれを国家制定の正年号と見る説もあったが,今日では聖徳太子を賛仰する法隆寺僧が太子の経歴を記すために私用したものと考えられている。…
…
[元号使用の始まり]
日本では645年(皇極4)蘇我氏の討滅を機に孝徳天皇が即位してまもなく,この年を大化元年と定めたのが最初である。大化以前において法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘や《伊予国風土記》逸文の道後温泉の碑文などによって法興という年号のあったことが知られるが,これは公式に定められたという徴証がなく,逸年号もしくは広い意味で私年号というべきであろう。650年(大化6)白雉と改元されたが,654年(白雉5)孝徳天皇の没後年号はとだえ,天武天皇の末年に朱鳥の年号が定められたが,これもあとが続かず,701年(文武5)に至り,対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。…
※「私年号」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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