中国,南宋初期の政治家。字は会之。江寧(南京)の人。1123年(宣和5)科挙の最難関,博学宏詞科に合格し,北宋神宗期の宰相王珪の孫娘と結婚し,出世コースを歩んだ。靖康の変の時,金の傀儡(かいらい)政権(楚)樹立計画に反対したため,宋の皇族らと共に金に強制連行された。30年(建炎4)金の将軍,撻懶(たつらん)の了解の下に,夫人を伴い帰国した。37年(紹興7)撻懶が金の権力を握り,傀儡政権,斉(劉予)を取り潰したことは秦檜の出番を意味した。彼は1127年(建炎1)以来,南北(宋・金)の均衡的共存関係の樹立を構想していたからである。また高宗は37年の父徽宗の死亡告知を契機に,和議によって柩の返還と母皇太后の生還を強く願うようになった。両者は連合し,38年末に多くの強い反対論をおさえ宋金平和条約を締結した。これは金の政変により破棄されたが,41年に第2次条約が結ばれ,宋金関係は安定した。同時に秦檜らは懸案であった軍事全権の皇帝帰属を一気に実現させ,さらに42-50年,南宋全土の土地測量事業(経界法)を実施し,戦乱で破壊された支配機構を整え,南宋政権の基礎を固めた。国勢に見あった宋金関係を構想し,実現に全力を尽くした点はすぐれたところである。他方,宦官,外戚,名門層と結び18年間も宰相として権勢をほしいままにし,岳飛ら政敵を徹底的に迫害したのは暗い側面である。死後は中華思想,民族主義の立場から,民族の気節を失った売国奴と規定され,評価はよくない。
執筆者:寺地 遵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、宋(そう)の政治家。字(あざな)は会之。江蘇(こうそ)省南京(ナンキン)の人。宋代の科挙の最難関であった詞学兼茂(しがくけんも)科に合格。宰相王珪(おうけい)の孫娘を妻とした彼は、資格、閨閥(けいばつ)ともに官僚の経歴として際だっていた。1126年に連行された金国での経験を買われ、帰国後31年から32年、38年から55年の両次に宰相に就任。戦いを嫌った南宋初代の高宗の意を受けて、42年に金国との和議を成立させた。淮河(わいが)以北を金国に割譲する形でのこの和議は、当時の南宋の実力からみて相応のものであったといえる。しかし、そのための武力の規制や言論の弾圧が人事の専断とともに反対派を刺激し、加えて民族意識の高揚が死後の評価を悪くさせ、姦臣(かんしん)、売国奴の烙印(らくいん)を押された。
[山内正博]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1090~1155
南宋初期の宰相。靖康(せいこう)の変で金に拉致(らち)され,帰国後の1142年,主戦派を抑えて宋・金和議を成立させた。以後岳飛(がくひ)ら反対派を抑圧したので,のち姦臣(かんしん)の烙印(らくいん)を押された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新