秦檜(読み)しんかい

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

秦檜
しんかい
(1090―1155)

中国、宋(そう)の政治家。字(あざな)は会之。江蘇(こうそ)省南京(ナンキン)の人。宋代の科挙の最難関であった詞学兼茂(しがくけんも)科に合格。宰相王珪(おうけい)の孫娘を妻とした彼は、資格、閨閥(けいばつ)ともに官僚の経歴として際だっていた。1126年に連行された金国での経験を買われ、帰国後31年から32年、38年から55年の両次に宰相に就任。戦いを嫌った南宋初代の高宗の意を受けて、42年に金国との和議を成立させた。淮河(わいが)以北を金国に割譲する形でのこの和議は、当時の南宋の実力からみて相応のものであったといえる。しかし、そのための武力の規制や言論の弾圧が人事の専断とともに反対派を刺激し、加えて民族意識の高揚が死後の評価を悪くさせ、姦臣(かんしん)、売国奴の烙印(らくいん)を押された。

[山内正博]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

秦檜
しんかい
Qin Hui; Ch`in Kuei

[生]元祐5(1090).江寧
[没]紹興25(1155).10.22. 臨安
中国,南宋の政治家。江寧 (江蘇省南京) の人。字は会之。政和5 (1115) 年進士合格。哲宗朝の宰相王珪の孫娘と結婚。有能な官吏として,靖康1 (26) 年御史中丞に栄進。翌年徽宗らとともに軍に捕えられ,建炎4 (30) 年帰国。南高宗を受け,翌年宰相となり和平論を唱えた。反対派のため一時失脚したが,紹興8 (38) 年再び宰相となり,同 12年主戦論を押えて金との間に和議を結んだ。以後 19年間宰相に在任し,一族繁栄をはかったので不評を買った。

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精選版 日本国語大辞典の解説

しん‐かい ‥クヮイ【秦檜】

中国、南宋時代の政治家。字(あざな)は会之。諡(おくりな)は忠献、または繆醜。江蘇省南京の人。金の侵入後金国に三年間抑留されたが、帰国して宰相になり、紹興一二年(一一四二)領土を割譲して金と和議を結んだ。彼のために獄死した岳飛将軍が救国の英雄として尊ばれたのに反し、姦臣・売国奴として、後世の評価が悪い。(一〇九〇‐一一五五

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百科事典マイペディアの解説

秦檜【しんかい】

中国,南宋初期の宰相。1127年金軍に捕らえられたが,やがて放還され,南宋の朝廷高宗信任を得,主戦派の岳飛らをおさえて金との和平を図った。1141年和議が成立したが,宋帝は〈〉と称する屈辱の和約であった。後世には姦臣(かんしん)の代表とされる。

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世界大百科事典 第2版の解説

しんかい【秦檜 Qín Huì】

1090‐1155
中国,南宋初期の政治家。字は会之。江寧(南京)の人。1123年(宣和5)科挙の最難関,博学宏詞科に合格し,北宋神宗期の宰相王珪の孫娘と結婚し,出世コースを歩んだ。靖康の変の時,金の傀儡(かいらい)政権(楚)樹立計画に反対したため,宋の皇族らと共に金に強制連行された。30年(建炎4)金の将軍撻懶(たつらん)の了解の下に,夫人を伴い帰国した。37年(紹興7)撻懶が金の権力を握り,傀儡政権(劉予)を取り潰したことは秦檜の出番を意味した。

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