中国人が古くから持ち続けてきた民族的自負の思想。黄河の中流域で農耕を営んでいた漢民族は,その文化が発達した西周ごろから,四隣の遊牧的な異民族に対して,しだいに優越意識をいだくようになった。それが,戦国時代から秦・漢にかけて統一国家へと向かう時期に,思想の次元にまで定式化され,中華思想とよばれる。みずからを夏,華夏,中華,中国と美称し,文化程度の低い辺境民族を夷狄(いてき)戎蛮とさげすみ,その対比を強調するので,華夷思想ともよばれる。
自国の優越性に対する強烈な自負と自信が中華意識となって結晶したものにほかならないが,それは天下において,文化的にもっとも傑出した,地理的に中央の地であるとの矜持(きようじ)である。類似の発想は古代のバビロニア,エジプト,インドなどにも見いだされるけれども,それらと中華意識との違いの一つは,王道理論(徳治主義)の介在であろう。王者(天子)の仁政が四方に波及して,僻遠の夷狄も〈遠しとして届(いた)らざる無し〉,つまりことごとく中国に帰服するはずのものとされるのである。華夏の徳を慕って来朝する者は歓迎し,通婚をも忌まない,開放的な世界主義(コスモポリタニズム)がある。そればかりか,礼や道義性において,夷狄も向上すると,差別を撤廃して華夏社会に受容する。もし優れた華夏文化を身につけ,王道国家の実現に努めるならば,出身が夷狄であろうとも華夏の一員として処遇する。〈舜は東夷の人なり,文王は西夷の人なり,……志を得て中国に行うこと符節を合するがごとし〉(《孟子》離婁下),すなわち舜や文王は夷狄ながら華夏として遇され聖人とたたえられている。
しかし王者の居住する王畿(千里四方)を中心にして,その外に500里ごとに甸服(でんぷく),侯服,綏服(すいふく),要服,荒服の五服(5地域)を配する(《尚書》益稷)のは,王化が段階的に僻遠に及ぶとする,中華主義の世界観にほかならず,僻遠の地が常にそのような状態をよしとして階層的支配に甘んじ,その文化を敬慕するとはかぎらない。夷狄の中には〈中国に匹敵する〉ほどの強大な国家が現れることもあり,華夏中心の世界秩序をこころよしとせず,朝貢しないだけでなく,反発して華夏の自尊心を傷つけることもあろう。華夏を侮り攻撃の矛を向けようものなら,中華意識はがぜん憤激し排撃的となる。〈夷狄,膺懲(ようちよう)すべし〉の攘夷論に転ずる。華夏は文化的に優越しているだけでなく,軍事においても夷狄を圧倒する大国であるべきなのである。だが華夏の武力が劣勢で夷狄の鋭鋒にたえられないとき,また危機や動乱の時代には,熾烈な攘夷論がさまざまに屈折する。たとえば南宋は,北中国を夷狄の金に奪われて〈半壁の天下〉を余儀なくされ,金の封冊を受けたため,このとき大義名分を唱えて攘夷を叫ぶ声が高まり,それが儒学や歴史学に大きな影響を与えた。朱熹(しゆき)(子)も〈万世必報の讐あり〉と夷狄撃攘を力説し,その門流にいたるまで朱子学派では華夷の弁別にとりわけ厳しい。
→華夷思想 →小中華思想
執筆者:日原 利国
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一般的に、自己の文化が最高で天下の中心に位置するとみて、それと異なる周辺の文化を蔑視(べっし)する考え方をいう。こういう思想がとくに根強く存在したのは、東アジアでは中国であり、「中華」の周辺に「夷狄(いてき)」を配するところから「華夷思想」とよぶこともある。この思想は、もともと儒教の王道政治理論の一部として形成された。儒教は天子(王者)がその徳によって民をあまねく教化することを理想とするから、王者の住む中華の土地はむろんのこと、辺境や塞外(さいがい)も「王化」が及ぶはずの地域であり、たとえ現在は夷狄であっても、将来いつの日にか中華の文化に同化する可能性があることになる。
こういう王者の徳を基準にした文化的な同化思想が中国で形成されたのは、戦国時代(前5~前3世紀)から秦(しん)・漢時代にかけてのことであった。それ以前の春秋時代(前8~前5世紀)ごろまでは、戎(じゅう)、狄、蛮(ばん)、夷の異種族は中華の諸侯から政治的に排除されるだけであった。ところが「戦国の七雄」とよばれるような、比較的広い領域を支配する国家が出現するようになると、それまで戎、狄、蛮、夷として排除されていた異種族もその郡県制領域支配のなかに取り込まれ、「王者」の徳が及べば中華に上昇する可能性があるとみなされるようになった。中華思想が、異なった種族の文化の存在を認めるのは、彼らの文化の独自の価値を認めるからではなくて、あくまで中華文化に同化する可能性をもつ限りにおいてである。したがって外国からくる使節も、中華を慕って「朝貢」したという形をとることによって、わずかに受け入れられた。
中華思想は、自己を天下で唯一の最高の中心と考えるから、隣接する対等の国の存在を認めない。ここまでが中国だと自らを限定する国境や領土の観念をもつことは、「王化」の拡大する可能性を否定することになるからである。しかし、そうした国境や領土に関する観念のあいまいさが、近代以降になり、列強による中国領土・利権の分割を容易にさせたことは否定できない。
[小倉芳彦]
『小倉芳彦著『中国古代政治思想研究』(1970・青木書店)』
華夷(かい)思想ともいう。中央の中華と,その周辺の四夷(しい)(東夷,西戎(せいじゅう),南蛮(なんばん),北狄(ほくてき))に区別し,中央に文化的な優位性を認める思想。中華は魏晋以降の言葉であり,古くは,夏,華夏,中国,中原といった。周代の中華とは,中央か周辺という地域に関係なく,周室の礼を体得しているか否かで区別された。中国のなかにも伊洛(いらく)の戎,陸渾(りくこん)の戎や赤狄,白狄が混在していた。秦ももとは戎翟(じゅうてき)であったが,中原諸国のなかに入っていった。漢代以降は中華思想は冊封体制という皇帝を中心とした国際関係として体現されていった。周辺諸国は中国王朝に臣従すべきものと位置づけられた。魏晋南北朝時代になると,北方の五胡諸民族も中原に入ると,中華思想を持つようになったので,南北それぞれ中華思想を持った王朝が対峙した。隋唐時代には再び一元的な中華思想にもどった。南宋以降は,北方の契丹(きったん),女真(じょしん),モンゴル,満洲族などが中原に入り,中華思想を持った。中華思想は漢民族だけの特権ではなかった。中国の周辺の朝鮮半島や日本でも,小中華思想を持っていた。
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