靖康の変(読み)せいこうのへん(英語表記)Jing-kang; Ching-k`ang

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

靖康の変
せいこうのへん
Jing-kang; Ching-k`ang

中国,北宋末の靖康2 (1127) 年,軍がの都 汴京 (開封) を陥れ,徽宗欽宗以下一族の男女約 3000人を満州 (現東北地方) に連れ去った事件。これで北宋は滅亡した。

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デジタル大辞泉の解説

せいこう‐の‐へん〔セイカウ‐〕【靖康の変】

中国、北宋の靖康年間(1126~1127)金軍が首都開封を占領して、徽宗・欽宗以下の皇族・貴族を捕らえて北方へ連れ去った事件。このため宋朝は一時中断したが、まもなく欽宗の弟の高宗が即位して南宋を再興した。

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百科事典マイペディアの解説

靖康の変【せいこうのへん】

中国で,北宋()がに滅ぼされた事変。1126年(靖康1年)金軍の攻撃によって宋の国都【べん】京(開封)が陥落。徽宗(きそう)(上皇)と欽宗は1127年捕虜として満州の奥地に送られた。北宋は滅亡,両帝は抑留のまま生涯を終わった。
→関連項目高宗(宋)南宋

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世界大百科事典 第2版の解説

せいこうのへん【靖康の変】

中国,宋の靖康年間(1126‐27),首都開封が金軍に再度,包囲攻撃され,陥落し,北宋朝が滅亡した事件。1120年(宣和2)宋は満州に台頭した女真族の金と同盟して,を挟撃し,遼支配下の中国領の回復を計画した。宋軍が遼軍に敗れたのに対し,金軍は遼を滅ぼし,華北支配をめざして南進し,開封に迫った。この第1回攻撃は26年1月から30日余り続き,宋の徽宗は退位し,代わった欽宗は領土の割譲,大量の金銀馬絹の提供などを申し出たので,金軍は撤兵した。

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大辞林 第三版の解説

せいこうのへん【靖康の変】

北宋の靖康年間(1126~1127)、金軍が首都開封を陥落させ、徽宗・欽宗以下三千余人を捕虜とし北帰した事件。この結果、北宋は滅亡。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

靖康の変
せいこうのへん

中国、北宋(ほくそう)王朝滅亡の事変。靖康(1126)は第9代欽宗(きんそう)の年号。北宋は遼(りょう)とその背後の金(きん)の二重の外圧に苦しんでいたが、第8代徽宗(きそう)は金と同盟して遼を挟攻し、遼の南京(なんけい)(燕京(えんけい)。現在の北京(ペキン))を奪おうとした。金軍は独力で遼を破り、空城となった燕京などを宋に譲ったが、宋側が約束した事項(歳幣の増加など)を果たさなかったので、宋都の開封(かいほう)を囲み、華北の領有を目ざした。徽宗は退位して欽宗が即位し、講和を進めたが、ふたたび違約がきっかけで金軍は閏(うるう)11月末開封を攻め落とし、徽宗・欽宗父子、皇族、官僚3000余人を捕虜とし、国庫の銀4000万両、金300万錠(じょう)、絹5400万疋(びき)などを奪って、東北方面へ凱旋(がいせん)した。翌年5月、欽宗の弟の康(こう)王が即位し(高宗)、王朝は再興されて南宋(なんそう)が成立した。この間、金は北宋の官僚張邦昌(ちょうほうしょう)に楚(そ)国という傀儡(かいらい)政権をつくらせたが、高宗はこれを解体し、淮河(わいが)を境に金軍を防いだ。[斯波義信]

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