中国、北宋(ほくそう)王朝滅亡の事変。靖康(1126)は第9代欽宗(きんそう)の年号。北宋は遼(りょう)とその背後の金(きん)の二重の外圧に苦しんでいたが、第8代徽宗(きそう)は金と同盟して遼を挟攻し、遼の南京(なんけい)(燕京(えんけい)。現在の北京(ペキン))を奪おうとした。金軍は独力で遼を破り、空城となった燕京などを宋に譲ったが、宋側が約束した事項(歳幣の増加など)を果たさなかったので、宋都の開封(かいほう)を囲み、華北の領有を目ざした。徽宗は退位して欽宗が即位し、講和を進めたが、ふたたび違約がきっかけで金軍は閏(うるう)11月末開封を攻め落とし、徽宗・欽宗父子、皇族、官僚3000余人を捕虜とし、国庫の銀4000万両、金300万錠(じょう)、絹5400万疋(びき)などを奪って、東北方面へ凱旋(がいせん)した。翌年5月、欽宗の弟の康(こう)王が即位し(高宗)、王朝は再興されて南宋(なんそう)が成立した。この間、金は北宋の官僚張邦昌(ちょうほうしょう)に楚(そ)国という傀儡(かいらい)政権をつくらせたが、高宗はこれを解体し、淮河(わいが)を境に金軍を防いだ。
[斯波義信]
中国,宋の靖康年間(1126-27),首都開封が金軍に再度,包囲攻撃され,陥落し,北宋朝が滅亡した事件。1120年(宣和2)宋は満州に台頭した女真族の金と同盟して,遼を挟撃し,遼支配下の中国領の回復を計画した。宋軍が遼軍に敗れたのに対し,金軍は遼を滅ぼし,華北支配をめざして南進し,開封に迫った。この第1回攻撃は26年1月から30日余り続き,宋の徽宗は退位し,代わった欽宗は領土の割譲,大量の金銀馬絹の提供などを申し出たので,金軍は撤兵した。しかし宋の違約によって,同年11月,第2回攻撃がかけられた。燕京からの南下部隊と,大同,太原,洛陽経由部隊の合流した金軍の前に,開封はついに閏11月末に陥落した。翌年3~4月,金軍は宋朝を廃し,傀儡(かいらい)政権の楚国をたて,徽宗,欽宗を含む皇族3000余名を捕虜とし,北帰した。難を免れた欽宗の弟高宗が商丘(河南省)で南宋朝を開いたのは27年5月(建炎1)であった。
執筆者:寺地 遵
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北宋末の靖康年間(1126~27年),国都開封が前後2回金軍の攻撃を受けて陥落し,徽宗(きそう),欽宗(きんそう)以下3000余人が金に拉致(らち)され,北宋が滅んだ事件。徽宗は蔡京(さいけい)らのすすめで,金と同盟して遼を挟撃し,燕雲十六州の奪回を図ったが(燕山の役),遼を滅ぼした金は,さらに華北の領有をめざして南侵し,この事件が生じた。この直後1127年5月高宗が宋(南宋)を再興し,金とその傀儡(かいらい)の斉に対峙した。
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