改訂新版 世界大百科事典 「窮乏化説」の意味・わかりやすい解説
窮乏化説 (きゅうぼうかせつ)
theory of increasing poverty
Verelendungstheorie[ドイツ]
資本主義経済の発展にともない不可避的に労働者階級の窮乏化がすすむという学説。K.マルクスの用語ではないが,内容的には彼の学説の一面をなし,労働者階級の団結により資本主義を廃止して社会主義を実現しようとする運動の重要な論拠を示すものとみなされてきた。
マルクスの窮乏化説
彼はたとえばエンゲルスとの共著《共産党宣言》でもすでにほぼつぎのように述べていた。すなわち,封建社会の没落から生まれた近代ブルジョア社会は,さまざまな下層の中産階級をプロレタリアに転落せしめ,ブルジョアジーとプロレタリアートとの二大階級に全社会の階級対立をますます単純化していく。社会の両極分解のなかで〈近代の労働者は工業の進歩とともに向上するどころか,反対に彼ら特有の階級の諸条件以下にますます沈んでいく。労働者は窮民となり,貧窮は人口や富よりもっと急速に発展する〉。それとともに労働者階級の団結がひろがり,その革命的勝利も不可避となる。
彼の主著《資本論》では,とくに第1巻第7編の蓄積論でこれに対応する理論構成が示されている。すなわち,その第24章第7節〈資本主義的蓄積の歴史的傾向〉によれば,自分の労働にもとづく私有の収奪による否定から成立した資本主義的私有は,その生産体制の内在的法則の作用によって,資本の集中による収奪をすすめる裏面で,労働者の〈貧困,抑圧,隷属,堕落,搾取の度合の増大〉をもたらす。しかし,資本主義的生産過程の機構によって〈訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大していく〉のであり,やがて〈収奪者が収奪され〉〈否定の否定〉が実現される。これに先だつ第23章〈資本主義的蓄積の一般的法則〉でも,それに通ずる論理が示されている。すなわち,資本蓄積にともなう生産性の増大につれて,資本のうち機械・道具・原料などの不変資本(不変資本・可変資本)に投じられる部分が,労賃に投じられる可変資本部分に比べ相対的に急速に増加し,その比率から成る〈資本の有機的構成〉がたえず高度化する。そのため相対的過剰人口または産業予備軍が累進的に増大する。〈つまり,産業予備軍の相対的な大きさは富の諸力とともに増大する。しかしまた,この予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなればなるほど,固定した過剰人口はますます大量となり,その貧困はその労働苦に反比例する。最後に,労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほど,公認の受救貧民層もますます大きくなる。これが資本主義的蓄積の絶対的な一般的法則である〉。ここにマルクスの窮乏化説ないし窮乏化法則といわれる論旨が端的に示されている。
窮乏化説をめぐる論争
マルクスの窮乏化説をめぐり,19世紀末のドイツ社会民主党の内部で,修正主義論争の一環として重大な論争がされた。その代表的理論家E.ベルンシュタインによれば,現実の資本主義の発展は,より少数の資本家と多数の労働者とへの両極分解とそれによる労働者の窮乏化をうながして社会主義革命を必然化する方向にない。マルクスの学説と革命路線は修正されるべきであり,社会主義はもっぱら日常的改良闘争のうちに実現されるべきである。こうした修正主義の主張の背景をなしていたのは,マルクスが依拠していた19世紀中ごろまでのイギリス資本主義と異なり,19世紀末以降のドイツに,当初から高度な技術を導入しつつ金融資本が急速に形成され,そのもとで農村には多数の農民が存続し,都市には新中間層が生み出されるといった,帝国主義段階の資本主義の発展の様相であった。一方,マルクス主義正統派を代表してK.カウツキーは,マルクスの窮乏化説が労働者階級の窮乏化傾向とともに組織的階級闘争の発展による反対方向への傾向をも含んでいたこと,しかも労働者階級の窮乏の増大は生理的窮乏にかぎらず,社会的欲望の不充足たる社会的窮乏の増大を意味しうることを強調し,マルクス主義を擁護した。この論争以来,窮乏化説の継承がマルクス主義正統派の義務・信条とされてきた感さえある。
第2次大戦の後も,1950年代にかけて東ドイツのJ.クチンスキーらは,資本主義の全般的な危機のなかで労働者階級の状態は相対的にだけでなく絶対的にも(物質的生活水準の低下をともない)窮乏化していることを理論的にも実証的にも論証しようとし,絶対的窮乏化説を主張し,多くの論議を呼んだ。たとえば,戦後の資本主義諸国の復興と成長のなかで,イギリスのE.J.ストレーチーらのように,労働組合と民主主義の力によって窮乏化は絶対的にも相対的にもみられなくなっているという主張もくりかえされている。さらにふりかえってみると,窮乏化説の理論的根拠とされる相対的過剰人口の累進的増大傾向自体,原理的には資本蓄積の必然的帰結とはいえないし,したがって労働者階級の窮乏化の程度,内容,方向などはむしろ歴史的,具体的に分析して明らかにすべき問題であるとみなす見解も,宇野弘蔵らによって提唱されてきた。とくに1960年代にかけての先進資本主義諸国における持続的な経済成長の過程で,労働者階級の物質的生活水準もいちおう向上しつづけるなかで,窮乏化説を継承する立場にも多様性が増してきている。たとえば,絶対的窮乏化より,国民所得総額中の労働者の分け前や生産性の上昇に比しての実質賃金の上昇速度の減少に示される相対的窮乏化を重視すべきであるという見地も,一部に有力視されている。また絶対的窮乏化も,生活水準の低下にかぎらず,社会的欲望を一契機とする労働力の価値以下への賃金の低下傾向と解されたり,さらに広く労働諸条件,生活諸条件,失業の規模や期間,周辺の第三世界諸国の労働者の状態などを全体として考慮しなければならない問題とされるようになっている。窮乏化が現実にはこうした多様な形態であらわれるとされるならば,一方で第三世界諸国には世界的な資本蓄積の作用として窮乏化傾向が進展し,そこに革命運動の論拠が求められる余地がいぜん大きく,他方で資本主義中枢諸国には職場や地域における労働者の主体性の回復をめざす疎外革命論の有効性が増していることが,ともに理解しやすくなるであろう。さきにふれた宇野の整理も,こうした考察の必要を認めたものと考えられる。
執筆者:伊藤 誠
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