朝日日本歴史人物事典 「竹本綱太夫(2代)」の解説
竹本綱太夫(2代)
生年:生年不詳
江戸中・後期の義太夫節の太夫。元は京都猪熊の織物屋津国屋甚兵衛。通称猪熊の綱太夫。竹本式太夫の門弟。初名紋太夫。天明2(1782)年豊竹座を退座し京都へ。寛政期(1789~1801)には,大坂で「摂州合邦辻」の「合邦庵室の段」,「花上野誉 の石碑」の「志渡寺の段」,「伊賀越道中双六」の「岡崎の段」,「加々見山旧錦絵」の「長局の段」,「仮名手本忠臣蔵」の「判官切腹の段」などを勤める。「志渡寺」の「爰から拝んで」や「合邦」の「聞く子や妻は内と外,顔と顔とは隔たれど,心の隔て泣寄りの親身の誠ぞ哀成」のくだりの節と情合いは,この人の特色ある表現法として今も伝承される。
(高木浩志)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報