江戸幕府の御家人倉地甚左衛門の妻。江戸谷中(現,台東区)の笠森稲荷境内の水茶屋の娘で,美人として評判になった。加藤曳尾庵(えいびあん)の《我衣(わがころも)》(曳尾庵筆記)に〈笠森稲荷境内に水茶屋の娘を笠森おせんとて大に評判高し〉とある。同書や大田南畝の《半日閑話》などによると、明和(1764-72)ころに浅草観音堂の楊枝(ようじ)店の娘(柳屋お藤)と上野山下の水茶屋の娘(蔦屋およし)らとともに美人として有名であった。しかも,これらの女性たちは錦絵に刷られ,市中でもてはやされ,なかでもお仙は一番人気があったといわれる。
執筆者:吉原 健一郎 美女として評判がたちはじめたのは1768年(明和5)お仙18歳のときから。翌年刊の《新板風流娘百人一首見立三十六歌仙》の冒頭にその姿が描かれ〈大極上上吉〉にランク付けされ,大田南畝も同年《売飴土平伝(あめうりどへいがでん)》でお仙を称揚した。巷説ではお仙は茶見世鍵屋に買われてきた百姓娘で,佐竹侯の家老中川新十郎と馴染み,姿を消したとか,養父が惨殺したなどと虚構化された。20歳のとき倉地氏に嫁して姿を消し,老父が見世に出たため〈とんだ茶釜が薬缶(やかん)に化けた〉ということばが流行した。文政期には人情本《松竹梅三組盃--笠森お仙物語》(2世楚満人作)が刊行され,また歌舞伎では1865年(慶応1)8月江戸守田座初演《怪談月笠森(つきのかさもり)》(河竹黙阿弥作)が講談《三人姉妹因果譚》を原拠として劇化された。ここではお仙が姉の仇を討つ筋立てで,3世沢村田之助がお仙に扮して評判よく大当りであった。
執筆者:小池 章太郎
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明和(めいわ)初年(1764~69ころ)に江戸・谷中(やなか)の笠森稲荷(いなり)境内にあった水茶屋の鎰屋(かぎや)にいた給仕女。浅草観音裏の楊枝(ようじ)店の柳屋お藤(ふじ)、浅草二十軒茶屋の蔦屋(つたや)お芳(よし)とともに美人の茶屋女、看板娘として評判が高かった。なかでもお仙は人気が高く、初期錦絵(にしきえ)の美人画モデルとして一枚絵の錦絵になったほか、歌舞伎(かぶき)芝居に脚色された。1770年(明和7)に御家人の倉地政之助(まさのすけ)の妻となり、1829年(文政12)病没。「向こう横町のお稲荷さん……」の手鞠唄(てまりうた)に名を残す。
[原島陽一]
(宇田敏彦)
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…一般に背骨の下部,上半身を曲げたりひねったりすることのできる部位を指す語。解剖学的には腰部の範囲は狭小だが,日常語としての〈こし〉が指す部分はあいまいで広い。〈こしぼね〉には寛骨や仙椎も含まれ,〈こしをかける〉とは実は尻をかけることである。柔道で相手を臀部に乗せて回し投げる技を腰車という。武士は腰刀を側腹部に差していた。くびれた腰の線とは側腹部を後ろから見た輪郭のことである。このようなあいまいさは他の言語にもある。…
…江戸では明暦の大火(1657)後,浅草待乳(まつち)山聖天宮門前の茶店が奈良茶(茶飯)を売り出して評判となり,宝暦年間(1751‐64)には隅田川右岸の真崎(まつさき)稲荷社内の茶店が田楽を売物にして客を集めた。つづく明和(1764‐72)ごろからは笠森稲荷(谷中)や浅草寺の境内その他の茶店が美しい看板娘を置いて評判になり,笠森お仙,難波屋おきたなどは錦絵にも描かれてその名をうたわれた。茶屋【西村 潔】。…
…茶屋に酒を置き,そのさかなの副食物から主食物までを提供するようになるのは自然の推移で,それぞれ煮売(にうり)茶屋,料理茶屋といい,寛文(1661‐73)ごろに始まっている。これらの茶屋にも給仕女が雇われ,水茶屋には客寄せに美人を置く店があり,江戸で有名な笠森お仙は明和ごろ(1770年前後)の水茶屋女である。彼女らは営業用に赤い前垂れを着けたので赤前垂れと俗称された。…
※「笠森お仙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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