笠森お仙(読み)カサモリオセン

デジタル大辞泉 「笠森お仙」の意味・読み・例文・類語

かさもり‐おせん【笠森お仙】

江戸谷中やなか、笠森稲荷いなり境内の水茶屋鍵屋の娘。明和(1764~1772)のころ浮世絵に描かれて評判となった美人黙阿弥の「怪談月笠森」などにも戯曲化された。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「笠森お仙」の意味・読み・例文・類語

かさもり‐おせん【笠森お仙】

  1. [ 一 ] 江戸谷中、笠森稲荷前の茶店鍵屋(かぎや)の娘。明和年間(一七六四‐七二)ころの浮世絵にまで描かれた美人。歌舞伎脚本「怪談月笠森(かいだんつきのかさもり)」や人情本「笠森お仙物語」など、江戸の文学に多くとりあげられた。
  2. [ 二 ] 歌舞伎「怪談月笠森」の通称

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改訂新版 世界大百科事典 「笠森お仙」の意味・わかりやすい解説

笠森お仙 (かさもりおせん)
生没年:1751-1827(宝暦1-文政10)

江戸幕府の御家人倉地甚左衛門の妻。江戸谷中(現,台東区)の笠森稲荷境内の水茶屋の娘で,美人として評判になった。加藤曳尾庵(えいびあん)の《我衣(わがころも)》(曳尾庵筆記)に〈笠森稲荷境内に水茶屋の娘を笠森おせんとて大に評判高し〉とある。同書や大田南畝の《半日閑話》などによると、明和(1764-72)ころに浅草観音堂の楊枝(ようじ)店の娘(柳屋お藤)と上野山下の水茶屋の娘(蔦屋およし)らとともに美人として有名であった。しかも,これらの女性たちは錦絵に刷られ,市中でもてはやされ,なかでもお仙は一番人気があったといわれる。
執筆者: 美女として評判がたちはじめたのは1768年(明和5)お仙18歳のときから。翌年刊の《新板風流娘百人一首見立三十六歌仙》の冒頭にその姿が描かれ〈大極上上吉〉にランク付けされ,大田南畝も同年《売飴土平伝(あめうりどへいがでん)》でお仙を称揚した。巷説ではお仙は茶見世鍵屋に買われてきた百姓娘で,佐竹侯の家老中川新十郎と馴染み,姿を消したとか,養父が惨殺したなどと虚構化された。20歳のとき倉地氏に嫁して姿を消し,老父が見世に出たため〈とんだ茶釜が薬缶やかん)に化けた〉ということばが流行した。文政期には人情本《松竹梅三組盃--笠森お仙物語》(2世楚満人作)が刊行され,また歌舞伎では1865年(慶応1)8月江戸守田座初演《怪談月笠森(つきのかさもり)》(河竹黙阿弥作)が講談《三人姉妹因果譚》を原拠として劇化された。ここではお仙が姉の仇を討つ筋立てで,3世沢村田之助がお仙に扮して評判よく大当りであった。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「笠森お仙」の意味・わかりやすい解説

笠森お仙
かさもりおせん

明和(めいわ)初年(1764~69ころ)に江戸・谷中(やなか)の笠森稲荷(いなり)境内にあった水茶屋の鎰屋(かぎや)にいた給仕女。浅草観音裏の楊枝(ようじ)店の柳屋お藤(ふじ)、浅草二十軒茶屋の蔦屋(つたや)お芳(よし)とともに美人の茶屋女、看板娘として評判が高かった。なかでもお仙は人気が高く、初期錦絵(にしきえ)の美人画モデルとして一枚絵の錦絵になったほか、歌舞伎(かぶき)芝居に脚色された。1770年(明和7)に御家人の倉地政之助(まさのすけ)の妻となり、1829年(文政12)病没。「向こう横町のお稲荷さん……」の手鞠唄(てまりうた)に名を残す。

[原島陽一]

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朝日日本歴史人物事典 「笠森お仙」の解説

笠森お仙

没年:文政10.1.29(1827.2.24)
生年:宝暦1(1751)
江戸中期の美女。江戸郊外,谷中の感応寺境内の笠森稲荷門前にあった水茶屋鍵屋五兵衛の娘で,大黒舞や手鞠唄に唄われ,芝居に仕組まれたり,錦絵の一枚絵や草双紙などにも描かれるほど,江戸の人気を集めた。明和7(1770)年2月,忽然と姿を消し,店には父親五兵衛がいるだけとなったので,失望した男たちの間に「とんだ茶釜が薬罐に化けた」という言葉が流行したという。実際は,お仙は笠森稲荷の祭主でお庭番(幕府の隠密)の倉地政之助と結婚し,外界と遮断された桜田の御用屋敷に住み,幸せな生涯を送った。

(宇田敏彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「笠森お仙」の解説

笠森お仙 かさもり-おせん

1751-1827 江戸時代中期-後期の女性。
宝暦元年生まれ。江戸谷中笠森稲荷の水茶屋鍵屋五兵衛の娘。18歳のころから浅草寺内の銀杏(いちょう)お藤,蔦屋お芳とともに江戸三美人ともてはやされ,錦絵にえがかれ,歌舞伎の題材にもなった。のち幕府御家人と結婚。文政10年1月29日死去。77歳。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「笠森お仙」の解説

笠森お仙
(通称)
かさもりおせん

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
怪談月笠森 など
初演
慶応1.8(江戸・守田座)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の笠森お仙の言及

【腰】より

…一般に背骨の下部,上半身を曲げたりひねったりすることのできる部位を指す語。解剖学的には腰部の範囲は狭小だが,日常語としての〈こし〉が指す部分はあいまいで広い。〈こしぼね〉には寛骨や仙椎も含まれ,〈こしをかける〉とは実は尻をかけることである。柔道で相手を臀部に乗せて回し投げる技を腰車という。武士は腰刀を側腹部に差していた。くびれた腰の線とは側腹部を後ろから見た輪郭のことである。このようなあいまいさは他の言語にもある。…

【茶店】より

…江戸では明暦の大火(1657)後,浅草待乳(まつち)山聖天宮門前の茶店が奈良茶(茶飯)を売り出して評判となり,宝暦年間(1751‐64)には隅田川右岸の真崎(まつさき)稲荷社内の茶店が田楽を売物にして客を集めた。つづく明和(1764‐72)ごろからは笠森稲荷(谷中)や浅草寺の境内その他の茶店が美しい看板娘を置いて評判になり,笠森お仙,難波屋おきたなどは錦絵にも描かれてその名をうたわれた。茶屋【西村 潔】。…

【茶屋】より

…茶屋に酒を置き,そのさかなの副食物から主食物までを提供するようになるのは自然の推移で,それぞれ煮売(にうり)茶屋,料理茶屋といい,寛文(1661‐73)ごろに始まっている。これらの茶屋にも給仕女が雇われ,水茶屋には客寄せに美人を置く店があり,江戸で有名な笠森お仙は明和ごろ(1770年前後)の水茶屋女である。彼女らは営業用に赤い前垂れを着けたので赤前垂れと俗称された。…

※「笠森お仙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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