糠部(読み)ぬかのぶ

改訂新版 世界大百科事典 「糠部」の意味・わかりやすい解説

糠部 (ぬかのぶ)

岩手県北部の二戸郡九戸郡,二戸市,久慈市あたりと,下北半島を含む青森県東部一帯の地域の中世の郡名。郡とはいっても古代には見えないもので,平安時代末以後の中世に特有のものである。古代の律令制下の郡は岩手郡(盛岡市のあたり)が北限で,10世紀までには建置されていた。それ以北の地は蝦夷(えみし)の居住地で,律令制にもとづく支配の及ばないところであった。糠部は,そのような蝦夷の居住地の汎称であったものが,12世紀にいたって郡として把握されるようになったものであろう。糠部の語源については,ウカメの転訛とする説,ヌカップの転訛とする説などがある。前者は8,9世紀の正史に見える蝦夷の族長宇漢米公(うかめのきみ)の居住地がすなわち糠部であると見る説であり,後者については現在の青森市付近に合浦(かつぷ)という地名のあったことが,根拠とされている。中世の糠部郡は四門九戸の制といって,その内部が東門(ひがしかど)・西門・南門・北門の4門に分かれ,さらに一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)までの九つの戸に分かれていた。一戸・二戸が南門,三戸~五戸が西門,六戸・七戸が北門,八戸・九戸が東門にあたるといわれているが,門と戸の間に関係があるのかどうかは不明である。またこの制は馬を飼養する牧の制に由来するといわれているが,これも明らかではない。しかし古来糠部の駿馬が有名だったことは事実であり,中世にも七戸御牧,種市牧などが見え,〈牧士〉という特殊な職が置かれ,牧士田というものが設定されていた。この地方が特殊な馬牧地帯だったことは疑いない。

 鎌倉時代の糠部郡の地頭は北条氏であるが,その内部の一戸~九戸には,工藤,横溝,合田などの北条氏の家臣地頭代に任命されていた。南北朝時代以後の糠部郡は南部氏の所領となり,三戸・八戸・九戸など戸を名字とする南部一族が割拠していたが,16世紀末豊臣政権の奥州仕置の中で三戸南部氏による統一が行われ,それとともに糠部郡という呼称も失われた。
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百科事典マイペディア 「糠部」の意味・わかりやすい解説

糠部【ぬかのぶ】

古代律令政府の支配が及ばなかった本州最北部に,平安時代後期ごろから使われた郡名。現岩手県北部から青森県東半部にあたる。郡内には一戸(いちのへ)〜九戸(くのへ)の九つの戸(部)が行政単位として設定され,後世地名として遺存した。各戸の領知者の主要任務は貢馬にあったといわれる。また東門(ひがしかど)・西門・南門・北門の四門制という行政区画制度も布かれていたが,九戸制との関係は不明。鎌倉時代に北条氏が糠部郡地頭となり,各戸には家臣を地頭代として配置。南北朝期以後は南部(なんぶ)氏所領となり,近世に郡名は消滅。

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世界大百科事典(旧版)内の糠部の言及

【南部氏】より

…中世の陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡(岩手県北部から青森県東部一帯の地域)の豪族,近世の盛岡藩主。新羅三郎源義光の子孫で,甲斐源氏の加賀美遠光の子,南部三郎光行にはじまる。…

【牧】より

…しかし1210年(承元4)10月に諸国の御牧興行のことを守護・地頭に命じ,翌年5月に小笠原御牧の牧士と奉行人三浦義村の代官との喧嘩のことが《吾妻鏡》にみえるので,幕府直轄の牧が設定されていた可能性も考えられる。少なくとも鎌倉時代に,幕府の支配が強く及んだ東北地方で牧が発達し,戦国以降の馬牧の一大中心地となる陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡の諸牧の基礎が作られたことは疑いない。糠部郡の七戸御牧の初見は1334年(建武1)であるが,この郡が幕府滅亡とともに北条家領から足利氏に移っていることも重要である。…

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