紀夏井(読み)きのなつい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀夏井」の意味・わかりやすい解説

紀夏井
きのなつい

生没年未詳。平安初期の官僚。紀善岑(よしみね)の子で、母は石川氏。850年(嘉祥3)に少内記になり、以降、右少弁、右中弁として実務官僚の道を歩み、文徳(もんとく)天皇の信任を得た。858年(天安2)讃岐守(さぬきのかみ)に転出したが、善政を行い、百姓の願いにより任期が2年延ばされ、讃岐を去るにあたっては多くの餞別(せんべつ)が送られたが、紙筆以外は受けなかったという。865年(貞観7)肥後(ひご)守に任ぜられたが、翌年の応天門の変で異母弟紀豊城の罪に連坐(れんざ)して土佐国に流された。肥後を去るときに民衆は路(みち)を遮って慟哭(どうこく)したという。この左遷は、天皇と直結した良官能吏没落を象徴する事件であり、以後名族紀氏も没落する。菅原道真(すがわらのみちざね)、島田忠臣らとも親交のあった清廉な能吏であり、書を小野篁(たかむら)に学び、土佐では薬草で民を救済するなど医療もよくしたほか、囲碁にも優れていた。

[佐藤宗諄]

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改訂新版 世界大百科事典 「紀夏井」の意味・わかりやすい解説

紀夏井 (きのなつい)

平安初期の官人。生没年不詳。紀善岑の子,母は石川氏の娘。平安初期の良官能吏の典型的な官人で,清廉な国守良吏)として有名。大内記,右中弁など実務官人としての職務を経験したのち,播磨,讃岐,肥後などの国守を歴任。とくに858年(天安2)に讃岐守として赴任したが,吏民はその政化に安んじ,任期満了にあたっては,百姓が上京して延任を希望したため,2年間の延任がみとめられ,人民を豊かにさせたという。讃岐を去るとき,贈られた餞別も紙筆以外はすべて辞退したという。それが評価されて865年(貞観7)肥後守となったが,翌年応天門の変で異母弟紀豊城に縁坐して土佐に流罪となった。肥後を去るにあたっても,民衆は父兄を失ったかのように泣き悲しみ,路を遮ったという。文人としての才能も秀でており,書は小野篁から学び,土佐では薬草を集めて民衆救済を試みたように医薬にも詳しく,囲碁もよくした。
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朝日日本歴史人物事典 「紀夏井」の解説

紀夏井

生年:生没年不詳
平安初期の官人。美濃守従四位下善岑と石川(名不詳)の子。第3子であり,紀三郎とも称された。温厚な人柄で,文徳天皇に抜擢されて,式部少輔,右中弁などを歴任。天安2(858)年に天皇が没すると讃岐守に転出,任国でも勧農撫育に努め,国郡内に米蔵40棟を新造して非常用に備えるなど,治政よろしきを得たことから留任運動が起こり,2年間の任期延長が認められたという。離任に際して人々からの贈り物を,ひとつとして受け取らず,ただ帰京後に送られたもののうち紙と筆だけを受け取り他はすべて返送している。応天門の変(866)で異母弟豊城が伴善男の従者として関与したため連座して土佐国(高知県)に配流された。雑芸や囲碁をよくし,書にも優れていたことから,師事した小野篁より「真書の聖」と称賛されている。「射覆」(おおってある物を言い当てる)の特技もあり,医薬にも通じていた。

(瀧浪貞子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「紀夏井」の解説

紀夏井 きの-なつい

?-? 平安時代前期の官吏。
紀善岑(よしみね)の3男。文徳(もんとく)天皇に信任されて右中弁,式部少輔(しょう)などを歴任。天安2年(858)讃岐守(さぬきのかみ)となり善政をしき,百姓らの請願によって任期が2年延長されたという。貞観(じょうがん)7年肥後守。翌年応天門の変で異母弟紀豊城(とよき)の罪に連座し,土佐に流される。書や囲碁をよくし,医薬にも通じた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「紀夏井」の解説

紀夏井
きのなつい

生没年不詳。平安前期の官人。善岑(よしみね)の子。豊城(とよき)の異母兄。長身の美男と伝えられ,雑芸・医薬に通じ菅原道真や島田忠臣らとも親交があった。隷書の達人で,文徳天皇に重用され,850年(嘉祥3)少内記から右中弁に昇進。文徳没後赴任した讃岐では,善政により百姓らが任期延長を朝廷に懇願した。866年(貞観8)応天門の変で豊城に縁坐し土佐へ配流の折も,任国肥後の百姓が悲しんだという。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紀夏井」の意味・わかりやすい解説

紀夏井
きのなつい

平安時代前期の官人。善岑の子。廉直な国司として有名。書を小野篁 (たかむら) に学ぶ。天安2 (858) 年右中弁から讃岐守に任じられる。善政をしいたため,人民の要請により2年間留任。貞観7 (865) 年肥後守となったが,応天門の変で異母弟豊城の罪に縁坐,土佐に流された。 (→紀氏 )  

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世界大百科事典(旧版)内の紀夏井の言及

【応天門の変】より

…正史は当然真犯人は善男であるとしているが,大宅鷹取が善男に私怨をいだいていたらしいことや,炎上後約5ヵ月後に告言していること,事件の審理中に良房が摂政になり,事件落着直後に継嗣基経が中納言に特進していることなど,事件の背後に良房の暗躍が予想される。善男自身が能吏であり,良吏の誉れ高かった紀夏井(きのなつい)も縁坐したことから,当時急速に進出していた良官能吏のグループを,応天門炎上事件を利用して,良房らが排除しようとした疑獄事件の性格がつよい。この事件を素材とした絵巻として《伴大納言絵詞》がある。…

【土佐国】より

…これは四国山脈を横断して南下するもので,現在の長岡郡本山町を経由し,のちに〈北山越え〉と呼ばれる官道であった。土佐国は724年(神亀1)の制によって遠流の国とされて以来,奈良時代では石上乙麻呂,大伴古慈斐,池田親王(淳仁天皇の弟),弓削浄人・広方・広田(道鏡の一族),平安時代に入ると紀夏井(応天門の変),藤原師長(保元の乱),源希義(まれよし)(平治の乱)等々,多くの著名人の配流先となった。また,国司としては紀貫之の来任が著名である。…

【野市[町]】より

…国道55号線が通り,住宅開発も進み,高知市のベッドタウン化しつつある。亀山は応天門の変に連座して土佐に流された紀夏井(きのなつい)の邸跡と伝え,近くには彼が両親の菩提のために建立したという父養(ぶよう)寺,母代(ぼだい)寺の伝承地がある。また四国八十八ヵ所28番札所の大日寺がある。…

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