( 1 )西周は「百学連環」で、今日「純文学」と訳されるフランス語 belles-lettres を、文学一般、あるいは人文科学を意味する literature と区別していたが、「純文学」ということばはまだ用いていない。挙例の「美妙斎主人が韻文論」が書かれたころに造語されたものか。
( 2 )②の用法は、星野天知「黙歩七十年」(一九三八)の「文学界同人の純文学説に飽き足らなくなって来たのであった」などに見られるように、雑誌「文学界」等の文壇形成とともに見えはじめるが、大正から昭和初期の大衆文学の隆盛に対して、それらと区別するために使われ出したとも考えられる。
文芸用語。読者に迎合する興味本位の通俗文学・大衆文学に対し、純粋な芸術的感興を唯一の必然として書かれた小説をさす。坪内逍遙(しょうよう)や北村透谷(とうこく)ら明治の作家にも、文学者の高貴な精神性とこの用語を結び付けた使用例があるが、自然主義文学から派生した私(わたくし)小説が大正期に隆盛、久米(くめ)正雄の『「私」小説と「心境」小説』(1925)では、純文学と私小説を安易に同一視する見方も出てきた。昭和初期の大衆文学の興隆とプロレタリア文学の問いかけのなかで、私小説中心の文壇小説が問題視され、横光利一『純粋小説論』(1935)は「純文学にして通俗文学」という新たな小説の可能性を模索した。近代日本特有の名称だが、流動的な文学動向のなかで文学の意味が問い直されるおりはいつも、この名称をめぐる議論が復活するのも興味深い。第二次世界大戦後も、中間小説流行への危機感から純文学概念の変質を論じた平野謙の問題提起をきっかけに、伊藤整・大岡昇平・佐伯彰一(さえきしょういち)(1922―2016)らを巻き込んで、「純文学論争」(1961~1962)が戦わされた。一方、1961年(昭和36)から新潮社は「純文学書下ろし特別作品」と銘打ったシリーズを開始、現在に至るまで『砂の女』『沈黙』『恍惚(こうこつ)の人』など多彩な佳作を生み出しているものの、自己固有の問題を固有の方法で思う存分展開する実験的な姿勢は感じられるが、「純文学」の概念を説明する客観的基準はかならずしもみられない。「純文学」に対立することばとして「大衆文学」「中間小説」「エンターテインメント文学」などが想定されるが、正面から「純文学」とは何かという議論そのものがなされなくなっているという事情が存在しよう。文学の質への問いは、どれが本物の文学か、贋物(にせもの)の文学かを論じた、1974年の江藤淳・平岡篤頼(とくよし)(1929―2005)らによる「フォニー論争」にもつながるが、それは新しい時代のなかで文学の果たすイメージが、人によって違っていることを示していた。「芥川賞(あくたがわしょう)」を受けたからそれが「純文学」であるというわけではないという事情も、そうした背景と関係しよう。
[中島国彦]
『日沼倫太郎著『純文学と大衆文学の間』(1970・弘文堂)』▽『平野謙著『純文学論争以後』(1972・筑摩書房)』▽『久米正雄著『「私」小説と「心境」小説』(『近代文学評論大系(6)』所収・1973・角川書店)』▽『谷田昌平著『回想 戦後の文学』(1988・筑摩書房)』▽『女性文学会編『たとえば純文学はこんなふうにして書く――若手作家に学ぶ実践的創作術』(1997・同文書院)』▽『巽孝之著『日本変流文学』(1998・新潮社)』▽『日本論争史研究会編『ニッポンの論争('98-'99)』(1998・夏目書房)』▽『福田和也著『作家の値うち』(2000・飛鳥新社)』▽『横光利一著『愛の挨拶・馬車・純粋小説論』(講談社文芸文庫)』
大衆文学が読者の慰安を目的とし,興味本位に書かれるのに対して,作者の芸術的感興に基づく純粋な態度で書かれた小説が純文学と呼ばれる。日本の近代文学特有の名称で,明治末期に自然主義文学が起こる前後から知識人の文学愛好者のあいだに,作者の心境や現実体験の告白に関心を持つ風潮が生じた。この読者層に呼応するかたちで私(わたくし)小説が書かれ,それが大正,昭和前期の文壇小説の主流をなした。こうしたせまい純文学の流れに拮抗して,横光利一は〈純文学にして通俗小説〉を提唱し,それまでの純文学が排していた偶然性を重視し,物語的伝統と近代小説の知的高度さを併合させようとして〈純粋小説論〉(1935)を展開した。また,昭和初期のプロレタリア文学の台頭は芸術の大衆化の問題を提起するとともに,身辺雑記的な私小説を超える社会意識,階級的自覚を作家に要求するものであったため〈純文学〉の理念はこの面からも時代の波にさらされることになった。こうした過程を経て,戦後,マスコミの発達が文学の大衆化を余儀なくさせた事態に着目した平野謙は,大正以来の純文学にかわる新しい文学は,アクチュアルな社会的関心に基づく文学的志向が要求されるべきことを力説した。
執筆者:村松 定孝
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(井上健 東京大学大学院総合文化研究科教授 / 2007年)
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