結城神社(読み)ユウキジンジャ

デジタル大辞泉 「結城神社」の意味・読み・例文・類語

ゆうき‐じんじゃ〔ゆふき‐〕【結城神社】

三重県津市にある神社祭神結城宗広ほか一族の将士病難よけの利益があると信仰されている。俗称、結城医王大明神。

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精選版 日本国語大辞典 「結城神社」の意味・読み・例文・類語

ゆうき‐じんじゃゆふき‥【結城神社】

  1. 三重県津市藤方にある神社。旧別格官幣社。結城宗広ほかをまつる。延元三年(一三三八)宗広臨終の地で、文政七年(一八二四藩主藤堂高兌(たかさわ)社殿造営。結城医王大明神。

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日本歴史地名大系 「結城神社」の解説

結城神社
ゆうきじんじや

[現在地名]津市八幡町津

八幡神社の北東裏にあり、祭神は南朝方の武将結城宗広。旧別格官幣社。宗広は南朝方の形勢が不利となった延元三年(一三三八)北畠親房・顕信らと義良親王を奉じて東国へ下り、再挙をはかろうとして伊勢大湊おおみなと(現伊勢市)から出航した。しかし暴風雨に遭い、宗広の船は安濃津あのつへ吹寄せられ、そこで病を得て没したという。その墓とよばれる小塚八幡が社内にあり、石の六地蔵が祀られ、結城塚または入道にゆうどう塚といわれていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「結城神社」の意味・わかりやすい解説

結城神社
ゆうきじんじゃ

三重県津市大字藤方に鎮座。旧別格官幣社。結城宗広(むねひろ)を主祭神とし、結城親光(ちかみつ)と一族殉難将士を配祀(はいし)する。宗広は陸奥白河(むつしらかわ)(福島県白河市)の城主、建武(けんむ)中興に際し大いに功績があった。中興瓦解(がかい)ののちも義良(のりよし)(のりなが)親王(後村上(ごむらかみ)天皇)のもとで南朝のために忠誠を尽くし、1338年(延元3・暦応1)同親王を奉じて海路東国に向かう途中、暴風雨のため伊勢(いせ)国安濃津(あのつ)に漂着、その地で薨(こう)じた。当地ではいつのころよりか墓の傍ら小祠(しょうし)を建て宗広の霊を祀(まつ)っていたが、江戸期に入り津藩主藤堂(とうどう)家の崇敬厚く、何度か社殿を改築したり墳墓修造整備したりした。1880年(明治13)明治天皇巡幸のおり、幣帛(へいはく)料の下賜があり、82年別格官幣社に列せられた。例祭5月1日。社宝に紙本墨書「結城神社文書」45通(県指定文化財)、刀剣類などがある。

[平泉隆房]

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百科事典マイペディア 「結城神社」の意味・わかりやすい解説

結城神社【ゆうきじんじゃ】

三重県津市に鎮座。旧別格官幣社。結城宗広をまつる。宗広は南朝の忠臣で,1335年,1337年と再度にわたって,義良親王・北畠顕家に従って奥州から京畿に長征したが,顕家戦死後,再起を図って帰国の途次,1338年この地に病没。その墓側に祠を建ててまつったのに由来。例祭は5月1日。

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デジタル大辞泉プラス 「結城神社」の解説

結城神社

三重県津市にある神社。後醍醐天皇を奉じ、建武新政の樹立に貢献した結城宗広を祀る。当地では「結城塚」「結城明神」などとも呼ばれる。約300本のしだれ梅で知られる。

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