日本大百科全書(ニッポニカ) 「絵島・生島事件」の意味・わかりやすい解説
絵島・生島事件
えじまいくしまじけん
絵島事件(一件)ともいう。江戸大奥女中の乱行事件。7代将軍徳川家継(いえつぐ)の生母月光院(6代将軍家宣(いえのぶ)の側室左京局(さきょうのつぼね))に仕えた大年寄(大奥女中の総頭で表向きの老中に匹敵する地位)の絵島(江島。1681―1741)と当時名代(なだい)の歌舞伎(かぶき)役者生島新五郎(いくしましんごろう)との恋愛沙汰(ざた)が露顕して罪を得たというもの。その背後には、幼少の将軍家継を擁立して権勢を振るう月光院や新参の側用人(そばようにん)間部詮房(まなべあきふさ)、儒臣新井白石(あらいはくせき)らに対する、譜代(ふだい)の大名・旗本や6代将軍家宣の正室天英院らの反感があったといわれている。
事件は、1714年(正徳4)正月12日に、絵島らが月光院の名代(みょうだい)として上野の寛永寺(かんえいじ)および芝の増上寺(ぞうじょうじ)に参詣(さんけい)したおり、その帰途に木挽町(こびきちょう)の芝居小屋山村座に遊び、帰城が夕暮れに及んだことに端を発する。2月2日、その行為をとがめられて、絵島は同僚宮路(みやじ)ともども親戚(しんせき)に預けられ、目付、大目付、町奉行(まちぶぎょう)の糾問(きゅうもん)を受けることになった。このとき梅山、吉川らの女中7人も押込(おしこめ)となっている。3月5日、評定所(ひょうじょうしょ)の判決が下り、絵島は死一等を減じ遠流(おんる)とされ、月光院の願いによって高遠(たかとお)藩主内藤清枚(きよかず)・頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移された。罪状は、その身は重職にありながら、御使、宿下(やどさがり)のときにゆかりもない家に2晩も宿泊したこと、誰彼(だれかれ)となくみだりに人を近づけたこと、芝居小屋に通い役者(生島新五郎)となれ親しんだこと、遊女屋に遊んだこと、しかも他の女中たちをその遊興に伴ったことなどである。
相手の生島は三宅(みやけ)島に流罪、絵島の兄の白井勝昌(かつまさ)は死罪に処せられた。ほかにも旗本、奥医師、陪臣、呉服師とその手代、座元、役者、商人などの連座するもの多数に上り、その刑罰も死罪、流罪、改易、追放、閉門、遠慮に及び、大奥女中は67人が親戚に預けられた。この後、絵島は高遠の囲屋敷で27年の歳月を過ごし、1741年(寛保1)に61歳の生涯を閉じ、生島はその翌年に赦(ゆる)されて江戸に帰った。
[北原章男]