日本大百科全書(ニッポニカ) 「縄文農耕」の意味・わかりやすい解説
縄文農耕
じょうもんのうこう
縄文時代に存在していたとされる農耕。縄文時代の生業は、狩猟、漁労、木の実類の採拾などの採集を中心とするが、植物の栽培ないし農耕が存在したという見解は古くからある。たとえば酒詰仲男(さかづめなかお)は、木の実のなかでもクリは平均した大きさのものが出土することから、ある程度の管理、栽培があったとしている。最近では、福井県鳥浜遺跡からヒョウタン、リョクトウ(緑豆)などが縄文早期・前期の包含層から出土しており、これらはわが国に自生する植物ではないので、その渡来の様相と栽培が問題になる。また、考古学以外の分野からも、焼畑農耕を想定したり、植物生態学的な立場から、植物の半栽培の段階、いも類の栽培と雑穀類の栽培段階などを縄文時代に設定しているが、具体的な考古学的資料から立論したものではない。
縄文農耕として論議の対象になっているのは、縄文中期の中部山岳地帯や南関東の地域と、縄文後期・晩期の西日本地域である。前者は、縄文中期の勝坂(かっさか)式土器の分布する地域で、多量の打製石斧(せきふ)の出土することが古くから知られ、大山柏(かしわ)らはこれを石鍬(いしぐわ)などの機能をもつ道具とし、縄文中期の農耕を主張した。第二次世界大戦後は、八ヶ岳(やつがたけ)山麓(さんろく)に広がる縄文中期の遺跡の調査を通じて、藤森栄一が18項目にわたる非採集生活的な遺物を取り上げ、中部山岳地帯の縄文中期農耕文化論を展開した。近年は長野県荒神山(こうじんやま)遺跡などでアワではないかという炭化種子が出土したが、調査の結果はシソ科のエゴマ(荏胡麻)の種子と断定され、現在に至るまで縄文中期の農耕を具体的に示す穀類は明らかでない。西日本における縄文農耕は、縄文後期・晩期を中心とするもので、この場合も戦前から多量の打製石斧の出土が注目され、それを土掘り具とみるところから出発した。ここでは、中国・朝鮮や南方からの農耕の伝来を前提としている。近年の調査では、福岡県板付(いたづけ)遺跡、佐賀県宇木汲田(うきくんでん)貝塚や菜畑(なばたけ)遺跡などで、縄文晩期終末の夜臼(ゆうす)式土器や晩期後半の山ノ寺式土器の使用された時期の炭化米や水田遺構などの存在が明らかにされ、稲作が、従来考えられていた弥生(やよい)時代よりもさかのぼることが確実になってきた。これらの遺跡出土の石器の一部や北部九州に分布する縄文晩期の支石墓などからみると、南朝鮮の無文(むもん)土器文化が稲作とともにわが国に伝えられたのであろう。縄文土器を資料としたプラント・オパール分析では、縄文後期から晩期にかけてもイネの花粉化石が検出されるという。
[潮見 浩]