広い意味では織物の織成に従事する技術労働者全体をさすが,古代・中世には平織(ひらおり)の絹や絁(あしぎぬ)ではなく,より高度な技術を要する錦,綾,羅(うすはた)などの高級織物の織成にたずさわる技術労働者に限定して用いられる場合が多い。その源流は中国,朝鮮半島から渡来した技術者集団であり,律令期以前には錦部(にしごり),漢織(あやはとり),呉織(くれはとり)などと呼ばれた。大宝令制によると,宮廷需要をまかなうために大蔵省所管の織部司(おりべのつかさ)に技術官人として挑文(あやとり)(養老令制では挑文師(あやのし),挑文生(あやのしよう))が置かれ,配下の品部(しなべ)である染戸(そめへ)570戸のうちに錦綾織,呉服部(くれはとり),川(河)内国広絹織人が掌握されていた。これらの織手は主として畿内に居住し,技術の世襲を義務づけられ,3~7戸で1台の織機を使用して,1人年額1~2疋の製品を貢納する代償に,雑徭(ぞうよう)もしくは調と雑徭を免除される規定であった。織手は,原則として居住地で織成に従事しており,織部司の工房に上番(出勤)するものはきわめて少数であった。法制用語としての狭義の織手は,この織部司に上番する織手を意味する。奈良期には,織部司配下の織手のほかに,かなり広範囲に諸国の国衙にも織手(織生(しよくしよう))が確保されており,正税(しようぜい)(地方税)を財源に国衙が工房,原料,織機を保有し,数十人の織手を約1ヵ月間上番させて食料を支給し,1人1疋前後の錦,綾,羅を織らせ,製品を交易雑物(ぞうもつ)として政府に送る方式がとられていた。これらの諸国の織手は,国衙の工房に上番する期間以外は,絹,絁などの一般調庸物の織成に従事したものと考えられる。
9世紀に入ると,織部司では染戸が廃止されたかわりに,定数40人の織手が加えられ,居住地で織成させる方式から,直営工房を拡大して高級織物を確保する方式に転換がはかられており,これらの在京織手の集住地区を織部町と称した。織部司織手は,一部が内蔵寮(くらりよう)に分属したほか,平安後期には院織手,殿下織手などの名で有力貴族に所属するようになり,織部司にかわって,内蔵寮御服所が京都の織手集団の主要な掌握勢力となった。中世に入ると,織部町や東接する大舎人(おおどねり)町に集住する織手集団が一段と専業度を強め,座を構成するようになる。その主流が大舎人座であり,西陣機業の源流となった。諸国においても,織手集団は引き続き国衙に掌握されており,平安後期から鎌倉期にかけて国細工所(くにさいくしよ)に所属し,雑役(ぞうやく)もしくは年貢・雑役の免除分を織手の原料,織機,食料などに充当する織手給(おりてきゆう),織手名(おりてみよう)などの国衙領を与えられて生産を維持しており,この方式は,中世を通して各地の荘園領主や地頭にも部分的に採用された。ただし,織手給,織手名,織手免(おりてめん)を支給する方式が採用されたのは,高級織物の特産化が比較的遅れていた地域であり,特産化が進み,織手の専業化が達成された地域では,京都などと同様に座の形成が認められる。
執筆者:浅香 年木
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…しかし平安時代中ごろから朝廷では工房を維持することが困難になり,職人たちも独立の方向を示した。織部司に属した織手たちは万里小路家を本所として大舎人座を結成し,中世織物業の中心となった。応仁・文明の乱が起きると,織手たちは戦乱をさけて奈良,大津,堺などに疎開したが,大乱が終わるとともに帰洛し,現在の新町今出川上ル新在家町辺の白雲村に住んで営業を再開した。…
※「織手」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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