日本大百科全書(ニッポニカ) 「肥君猪手」の意味・わかりやすい解説
肥君猪手
ひのきみのいて
大宝(たいほう)1年(702)筑前(ちくぜん)国嶋郡川辺里(しまのこおりかわべのさと)戸籍(正倉院文書)に記載された嶋郡(福岡県糸島市、一部福岡市)の大領(たいりょう)(郡司(ぐんじ)の長官)で追正八位上勲十等、当時53歳。肥君の本拠は熊本県八代(やつしろ)郡宮原(みやはら)町(現氷川(ひかわ)町)の氷川流域であったが、嶋地方には6世紀ごろに進出してきたと推定される。その戸籍は郡司の家族構成の例として著名である。庶母、従父兄弟2世帯(7人、10人)、弟妹4世帯(2人、1人、3人、7人)、本人、妻妾(さいしょう)4人、男8人、男の婦3人、女4人、孫10人(3人の男が4人、4人、8人の世帯をなし、それぞれ孫2人、2人、6人をもつ)、血縁関係のない寄口(きこう)3世帯26人、奴婢(ぬひ)37人の124人からなる家父長的世帯共同体を形成する郷戸(ごうこ)で、口分田(くぶんでん)班給額は13町6段120歩に及ぶ。
[石上英一]
『青木和夫著『古代豪族』(『日本の歴史5』1974・小学館)』