機変ともいう。機に臨み変に応じて適宜の処置をすること。これが、日本人の思考・行動・創造の理念となるには、長い前史が必要であった。
日本の風土に働きかける水稲農耕生活のうちに将来「機変」にまで成育する生活の理念が生まれたが、奈良時代に中国古代北方文明が採用されたとき、律令(りつりょう)が「不改の常典」といわれたように、理想を典型・法則に仕立ててそれを時間と空間を越えて遵守・実現するという文明理念が固有の生活理念のうえに厚く積み重ねられた。しかし日本人は中国文明の刺激を受けて固有の生活理念をしだいに発育させ、平安時代の初めには中国伝来の文明理念を浸潤浸蝕して「時処機相応」の生活理念に変じ、理想的典型・法則を時と処(ところ)と人に応じて適宜に修整按配(あんばい)(モディファイ)して、律令政治に対して格式(きゃくしき)政治を行い、南都仏教に対して天台の教えを開いた。平安中期を経て鎌倉時代に入ると、末法辺土の劣機には古代の理想的典型はこのように修整按配する以外に適応の途(みち)はないと主張する法然(ほうねん)、新鸞(しんらん)、道元(どうげん)、日蓮(にちれん)の教えや慈円(じえん)の摂関将軍制待望論が生まれてきた。しかし、この時期の時処機相応の論理の徹底は、依然として古代的な典型法則遵守の埒(らち)内にあった。
この間に地方農村から浸出してきた武士の間に、公家(くげ)の律令政治を排し彼らの生活理念を臨機に応変して実現しようとする政治態度が生まれて、次代に臨機応変の理念が十分に実現される素地を整えたのである。
[石田一良]
臨機応変を意識的に把握し尊重する態度の成立には、室町時代の仏教思想、とくに禅、さらに連歌(れんが)論、能楽(のうがく)論等の芸術論が契機となっていると考えられる。
禅の基本文献として知られる『碧巌録(へきがんろく)』には、「作者機変を知る」(第10則)とあるが、これは臨機応変の応答を賞賛したもので、「機変を知る」者は傑物(けつぶつ)であるというのである。また宗祇(そうぎ)の後を継いで地下(じげ)連歌の最高位にあった兼載(けんさい)は、連歌の学習法を問われ、それは「何と定めがたき」ものであると答えている(『若草山』)。これは連歌の付合(つけあい)を念頭に置いて、臨機応変を説いたものである。連歌・連句は臨機応変を芸術にまで昇華させたものとして注目される。能の大成者世阿弥(ぜあみ)もまた『風姿花伝(ふうしかでん)』において、「時折節(ときおりぶし)の当世を心得て、時の人の好み」に応ずるために多彩な芸を習得することが肝要だとして、「ただ、時に用ゆるを以(もっ)て、花と知るべし」と説いた。
江戸時代では入我亭我入(にゅうがていがにゅう)が『戯財録(けざいろく)』で、「臨機応変をも弁(わきま)へず」に歌舞伎(かぶき)脚本を書くので「見物の敵に勝つことあたはず」と、直接「臨機応変」の語で作者の不勉強を戒めている。
このほか、茶道論、兵法書にも機変を尊重する説がみえているが、こうした臨機応変尊重の思想は、やがて宗教・芸術の枠を越えて、広く一般社会の行動理念として普遍化されるに至った。
[堀越善太郎]
『朝比奈宗源訳註『碧巌録』上中下(岩波文庫)』▽『伊地知鐵男・表章・栗山理一訳注『日本古典文学全集51 連歌論集・能楽論集・俳論集』(1973・小学館)』▽『西山松之助・渡辺一郎・郡司正勝校注『日本思想大系61 近世芸道論』(1972・岩波書店)』▽『石田一良著『教養の書80 日本の思想』(1979・通信事業教育振興会)』▽『金子金治郎著『連歌論の研究』(1984・桜楓社)』
出典 四字熟語を知る辞典四字熟語を知る辞典について 情報
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