中国の仏書。臨済宗の開祖、臨済義玄(ぎげん)の語録で、詳しくは『鎮州臨済慧照(えしょう)禅師語録』という。全一巻。その弟子三聖慧然(さんしょうえねん)の編集、興化存奨(こうけぞんしょう)の校勘である。巻首に北宋(ほくそう)末期、鎮州の長官であった馬防(ばぼう)の序があり、上堂、示衆、勘弁、行録(あんろく)の四部よりなっている。行録の最後に伝記があり、形式、内容ともに、禅の語録の典型とされる。「随処に主と作(な)れば、立処皆な真なり」「三乗十二分教は、不浄を拭(ぬぐ)う故紙なり」「仏を殺し祖を殺して、始めて解脱(げだつ)を得ん」など、名句が多い。また、無多子(たしなし)(単純)、活地(かっぱっぱっち)(ぴちぴちしているさま)、可可地(ある程度)など、唐代の口語もみられ、その資料としても注目される。宣和2年(1120)の版本のほか、これに先だつ四家録のテキストがあり、英仏二国語にも翻訳されている。
[柳田聖山]
『朝比奈宗源訳注『臨済録』(岩波文庫)』▽『柳田聖山編『禅語録』(『世界の名著18』所収・1974・中央公論社)』
中国の臨済禅の開祖,臨済義玄(?-866)の語録。詳しくは《鎮州臨済恵照禅師語録》。その弟子三聖恵然の編と伝える。1巻。臨済は,義玄が住する禅院の名で,帰依者であった鎮州王氏の開創であり,《臨済録》は鎮州臨済院における義玄の上堂説法を中心に,その一代の行録,問答を集めた言行録である。現在の本は,宋代の再編で,臨済禅の聖典として,その家風を強調する傾きをもつが,唐代の古い記録をうけることは確かで,言語,歴史,思想資料としても,高く評価される。義玄の説法は,あたかも武宗の廃仏の直後に当たっていて,仏教の伝統を見直そうという根元的革新的な特色をもつ。古典や既成教学の権威によらず,現在の個々の人間主体を無条件に肯定し,その完全な発揮を求める新しい価値を主張する。〈赤肉団上に一無位の真人あり〉〈随所に主となれば立所みな真なり〉〈いっさいの人惑をうけてはならぬ〉〈仏を殺し祖を殺して,はじめて解脱を得る〉など,近代的な名句が多い。ドミエビルの仏訳と,ルース・ササキの英訳がある。
執筆者:柳田 聖山
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 日本の臨済宗は,鎌倉時代の初めに明庵栄西が入宋して,五家七宗のうちの黄竜宗を伝え,《興禅護国論》を著して,旧仏教との調和をはかりつつ,鎌倉幕府の帰依で京都に建仁寺を開くのに始まり,同じく鎌倉幕府が招いた蘭渓道隆や無学祖元などの来朝僧と,藤原氏の帰依で京都に東福寺をひらく弁円や,これにつぐ南浦紹明(なんぽしようみよう)(1235‐1308)などの入宋僧の活動によって,短期間に鎌倉と京都に定着し,やがて室町より江戸時代にその後継者が,各地大名の帰依で全国に広がるものの,先にいう四十八伝二十四流の大半が,栄西と道元その他の少数を除いてすべて臨済宗楊岐派に属する。臨済禅は,唐末の禅僧,臨済義玄(?‐866)を宗祖とし,その言行を集める《臨済録》をよりどころとするが,日本臨済禅はむしろ宋代の楊岐派による再編のあとをうけ,とくに公案とよばれる禅問答の参究を修行方法とするので,おのずから中国の文学や風俗習慣に親しむ傾向にあり,これが日本独自の禅文化を生むことになり,五山文学とよばれるはばひろい中国学や,禅院の建築,庭園の造型をはじめ,水墨,絵画,墨跡,工芸の生産のほか,それらを使用する日常生活の特殊な儀礼を生む。栄西が宋より茶を伝え,《喫茶養生記》を著して,その医薬としての効果を説いたことも,後になると茶道の祖としての評価を高めることとなる。…
※「臨済録」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新