芝 葛鎮(読み)シバ フジツネ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「芝 葛鎮」の解説

芝 葛鎮
シバ フジツネ


職業
雅楽

肩書
宮内省式部職楽部楽長

生年月日
嘉永2年 1月28日

出生地
大和国奈良御所馬場(奈良県)

経歴
もと芝崎名を名乗った、南都方の雅楽専業の家系に生まれる。幼少から龍笛をよくし、家の舞曲「抜頭」「還城楽」の秘伝を受けた。明治3年宮内省雅楽局の設置に伴って東京に移住し、少伶人に任ぜられる。7年欧洲楽伝習を命ぜられ、上真行、奥好義らとともにフェントンのもとで吹奏楽を学び、バス・トロンボーンを担当。9年には天長節宴会で初めて行われた欧洲楽演奏に参加した。12年には奥や東儀季芳らと洋琴伝習を申し付けられ、松野クララにピアノを教わった。同年小篠秀一らとともに西洋管絃楽協会(洋楽協会)を設立して会頭となり、エッケルトメーソンらの指導の下、我が国初の管弦楽団となる同会の基礎固めに尽くした。また13年文部省の音楽取調掛兼任、17年文部省御用掛、19年音楽取調掛教授方を歴任し、唱歌教材の作成、音律研究、雅楽曲の教授・調査などに当たる一方、10年より東京女子師範学校附属幼稚園の委嘱で「秋ノ日影」「子日遊」「フリヌルフミ」などの保育唱歌を作曲。13年には海軍省の委嘱で「君が代」「海ゆかば」などといった儀礼唱歌の撰譜にも携わった。さらに「五常の歌」「鏡なす」「鳥の歌」「若竹若松」「国の姿」「山里」「須磨明石」「元始祭」など、数多くの小学唱歌祝祭日の唱歌を手がけており、中でも西洋風の旋律によって作曲した15年の「大和撫子」はメーソンに絶賛され、米国にも紹介された。なお、日清戦争以前には雅楽出身の伶人たちが主体となって唱歌を作っていたが、これらはその名にちなんで“カッチンぶし”などとも称された。20年日本音楽会創立に際し、特別会員に選ばれる。同年音楽取調掛を辞職してからは雅楽局の仕事に専念、21年楽師長兼伶人、22年兼伶人長を経て、大正元年楽部楽長に就任し、楽部の充実と宮中の洋風式楽の発展に業績を残した。大正6年退官。文久年間から晩年まで書きつづった日記「芝葛鎮日記」は記述も詳細かつ正確で、明治期の雅楽・洋楽を知る上で貴重な資料となっている。他の作品に「勅語奉答之歌」「船上」「四恩の歌」「継命」「秋の夕」「めぐみ」などがある。

没年月日
大正7年 2月19日 (1918年)

家族
弟=辻 則承(雅楽家),長男=芝 葛盛(日本史学者)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「芝 葛鎮」の解説

芝 葛鎮
シバ フジツネ

明治・大正期の雅楽師 宮内省式部職楽部楽長。



生年
嘉永2年1月28日(1849年)

没年
大正7(1918)年2月19日

出生地
大和国奈良御所馬場(奈良県)

経歴
もと芝崎名を名乗った、雅楽専業の家系。幼少から竜笛をよくし、家の舞曲「抜頭」「還城楽」の秘伝を受けた。明治3年東京に移住、宮中の少伶人となり、宮内省雅楽局(のちの式部職楽部)創設に尽力、明治13〜大正6年楽部楽長。英人フェントン、ドイツ人エッケルトに洋楽を学び、宮中に洋風の式楽を創始、13年から文部省の音楽取調掛を兼任、雅楽曲の教授、調査に当たった。「鏡なす」「大和撫子」「五常の歌」など保育や祝祭日の唱歌作曲も行なった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

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