芳春院(読み)ほうしゆんいん

日本歴史地名大系 「芳春院」の解説

芳春院
ほうしゆんいん

大徳寺の塔頭大仙だいせん院の北にある。慶長一三年(一六〇八)前田利家の夫人松子(芳春院)玉室宗珀開山として建立(都林泉名勝図会)。前田家の菩提寺。本堂背後にある二重楼閣は元和三年(一六一七)横井等怡が小堀遠州と図り建立したもので、玉室はこれを呑湖閣と名付けて昭堂とした。また池は飽雲、架橋は打月と称し、打月橋には玉室の筆になる打月の額をかかげる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「芳春院」の解説

芳春院(2) ほうしゅんいん

1547-1617 戦国-江戸時代前期,前田利家の妻。
天文(てんぶん)16年7月9日生まれ。12歳で結婚し11人の子女を生む。慶長4年(1599)利家と死別し,のち京都大徳寺内に芳春院をたてる。5年より徳川氏人質として15年間江戸にすんだ。元和(げんな)3年7月16日死去。71歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。名はまつ(松)。

芳春院(1) ほうしゅんいん

?-1561 戦国時代女性
北条氏綱の娘。古河公方(こがくぼう)を支配下にいれようとする北条氏政略により天文(てんぶん)9年古河公方4代足利晴氏と結婚。翌年義氏(よしうじ)を生み,のち北条氏と公方との友好関係維持につくした。永禄(えいろく)4年9月9日死去。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「芳春院」の解説

芳春院

没年:永禄4.7.9(1561.8.19)
生年:生年不詳
戦国時代の武家の女性。北条氏綱の娘。古河公方足利晴氏の妻。古河公方を支配下に入れることを企図した北条氏の政略により嫁ぎ,義氏を生んだ。北条氏が晴氏を退け義氏を公方に立てると,北条氏と公方との媒介役となり,北条氏の勢力伸張の一翼を担った。芳春院殿は法名。

(池上裕子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

367日誕生日大事典 「芳春院」の解説

芳春院 (ほうしゅんいん)

生年月日:1547年7月9日
戦国時代;安土桃山時代;江戸時代前期の女性。加賀藩主前田利家の正室
1617年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の芳春院の言及

【前田利家】より

…そして85年秀吉の越中征伐後,長男利勝(利長)が越中3郡を領し,ここに北陸の雄藩としての基礎を定めた。 豊臣氏と前田氏とは織田部将時代の同輩であり,秀吉の室北政所(高台院)と利家の室芳春院とは幼なじみ,しかも三女まあは秀吉の妾,四女豪と六女菊は秀吉の養女という親族同様の関係にあった。秀吉の信頼はとくにあつく,86年筑前守の受領を許され,87年の九州征伐では京都・大坂の守護,90年の小田原征伐には北関東から進撃して奥羽征伐にも従い,92年(文禄1)の文禄の役では名護屋に駐留して徳川家康とともに秀吉の朝鮮渡海を諫止,93年秀頼誕生の後には傅(もり)役に任ぜられ,96年(慶長1)秀吉・秀頼父子の参内に供奉して従二位権大納言に叙任され,豊臣氏に対し重大な責務を負うこととなった。…

※「芳春院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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