苅田村(読み)かんだむら

日本歴史地名大系 「苅田村」の解説

苅田村
かんだむら

[現在地名]苅田町苅田・神田町じんでんちよう一―三丁目・幸町さいわいまち京町きようまち一―二丁目・若久町わかひさちよう一―三丁目・松原町まつばらちよう長浜町ながはまちよう港町みなとまち

現苅田町の北東部に位置し、ぬき山山地の東裾野に立地する。東は周防灘に臨む。江戸時代には中津街道の宿駅が置かれていた。正保国絵図では海路元永もとなが(現行橋市)と結ばれている。元和八年人畜改帳には苅田町村とみえ、高四〇〇石余、家数一八三・人数五一四(うち百姓一八・名子一四・水夫一〇・塩売四一)、牛一〇・馬四一。郷村高帳では高五四四石余、うち新田高四三石余。

苅田村
かつたむら

[現在地名]住吉区苅田かりた一―一〇丁目など

前堀まえぼり村の南に位置し、往時坂上苅田麻呂が住居していたことが村名の由来と伝える。検討の余地がある史料だが、宝徳三年(一四五一)正月一一日の河内国鋳物師座法(真継文書)に署判者として「かつた村十七人代国次」とある。室町時代には五箇ごか庄に含まれており、文明三年(一四七一)一〇月の摂津五箇庄内我孫子屋次郎跡坪付注文(大徳寺文書)に地名がみえる。次いで永禄一二年(一五六九)八月日付で五箇庄代官今井宗久が出した禁制(「今井宗久書札留」今井文書)の宛先に村名がみえる。天正一一年(一五八三)八月一日の今井宗久宛知行目録(「今井町史」所引)によれば、「欠郡内五ケ庄」に含まれており、宗久の知行高三三〇石余。

苅田村
かりたむら

[現在地名]小川町芳井よしい

薬利くずり村の西に位置し、集落は東流する権津ごんづ川の谷地に発達。西は大沢おおさわ村、北は福原ふくわら(現大田原市)。刈田とも記した。天正一八年(一五九〇)の那須藤王丸資景知行目録(那須文書)に「かり田」とみえ上蛭田かみひるた(現湯津上村)福原などと合せて高一千七九五石余。慶安郷帳では田高三一石余・畑高一五石余、旗本那須領。元禄郷帳では高二〇五石余、旗本榊原・小林・下島・福島の四給。旧高旧領取調帳では榊原・小林・下島と幕府領の四給。天保一三年(一八四二)には家数九・人数二七、馬五。

苅田村
かんだむら

[現在地名]岡山市兼基かねもと

今谷いまだに村の北にあり、東流する百間ひやつけん川北岸の平地上に集落がある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一〇九石余、正保郷帳では「かんた」と読みが付され、水損所と注記がある。「備陽記」によると田畑六町四反余、家数一七・人数八五。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高二〇六石余、蔵入と家臣二人の給地。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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