苗木城跡(読み)なえぎじようあと

日本歴史地名大系 「苗木城跡」の解説

苗木城跡
なえぎじようあと

[現在地名]中津川市苗木・瀬戸

木曾川右岸、標高四四三メートルの高森たかもり(通称城山)にあり、本丸跡からは南に中山道の宿場であった中津川の市街が、その東には木曾の馬籠まごめ宿(現長野県木曾郡山口村)家並が眺望できる。旧宿場の背後には木曾山脈の山々が連なる。西には二ッ森ふたつもり(一二三三・三メートル)笠置かさぎ(一一二七・九メートル)、北に浅間せんげ(五五〇・四メートル)などに囲まれた旧領内の町村を眼下に見ることができ、城下を通っていた飛騨への街道(現国道二五七号)は中津川宿から分岐し、両街道を制する位置に築城されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「苗木城跡」の解説

なえぎじょうあと【苗木城跡】


岐阜県中津川市苗木にある城跡。眼下に見下ろす木曽川南端とし、高森山、通称城山(標高432m)の頂上部に主要な曲輪(くるわ)を配している。大手口は木曽川右岸の山麓に設けられ、急峻な四十八曲がり道と呼ばれる道を経て、山上に達する。自然岩を利用した天守台上に櫓(やぐら)が建てられ、山頂の本丸を「の」の字形帯状に巻くように二ノ丸が造られ、西側のやや低い所に御殿が設けられた。この城山は自然の大岩が多く、石垣は岩と岩をつなぐように築かれている個所が多い。外周の石垣は江戸初期の改修後のものと考えられるが、本丸南西部などに戦国時代のものと思われる石垣が残っている。小藩の城であるが、ほとんど遠山氏一氏が有した珍しい例であると同時に、よく戦国時代の面影をとどめている近世城郭として貴重であり、1981年(昭和56)に国の史跡に指定された。遠山氏は鎌倉初期に美濃国遠山庄を所領とし、岩村城を本拠地とした地頭に始まり、いわゆる遠山七家として東美濃地方に勢力を張った。はじめ土岐(とき)氏の配下にあったが、土岐氏没落後は斎藤氏に属し、斎藤氏滅亡後は織田信長に通じ、1532年(天文1)、遠山直廉(なおかど)が高森山に苗木城を築いた。その後しばらくは遠山氏の城主が続いたが、本能寺の変で織田信長が没すると、豊臣秀吉と結んで勢力を伸ばした金山城主森長可(ながよし)に城を落とされ、城主遠山友忠は徳川家康を頼って落ち延びた。関ヶ原の戦いが起こると、友忠の子である遠山友政は豊臣方の河尻秀長から苗木城を奪い取り、戦後この功が徳川家康に認められ、遠山氏は再びこの地に返り咲き、苗木藩主として幕末まで苗木の地を領有し続けた。JR中央本線中津川駅から車で約17分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android