三味線音楽の種目。もとは長唄(ながうた)の一流派であったが初世の出現により荻江節として確立した。現在は荻江節、河東(かとう)節、一中(いっちゅう)節、宮薗(みやぞの)節を総括して古曲とよばれている。1766~68年(明和3~5)に江戸・市村座で長唄の立唄(たてうた)として富士田吉治(ふじたきちじ)と拮抗(きっこう)して名をはせたといわれる荻江露友(ろゆう)(?―1787)を始祖とする。美声だが小音であったため、あるいは富士田吉治の台頭があったため劇場への出勤をやめたが、その独得の芸風は吉原の廓(くるわ)内で迎えられ、男芸者の門弟たちに歌い継がれ、遊里で練り上げられて、粋(いき)な座敷芸の歌曲となり後世荻江節とよばれるようになった。ただ2世と3世を名のった露友についてはいまのところ明らかでない。文政(ぶんせい)(1818~30)以後は衰退し、幕末になって吉原揚屋の主人で音曲通であった玉屋山三郎が、従来の長唄物、めりやす物のほかに、地歌の典麗な情調のものを取り入れたりして、荻江一流の特色の形成に意を注いだ。ついで深川の分限者、通称近江屋(おうみや)こと飯島喜左衛門が荻江節としての復興に尽力し、1876年(明治9)、一説には79年に、露友の名跡を継いで4世を名のり、ここに長唄の曲風から脱した独流の味をつくりあげた。4世没後は未亡人のいくが家元格となり、1904年(明治37)いくの没後は近親縁者によってわずかに習得継承されたなかで、柳原ひさ、梅の教えを受けた後継者には、佐橋章(さばししょう)、片山房枝、岡田よね、竹村すず、鎗田(やりた)ゆきらの名手が現れた。1956年(昭和31)研究保存育成の主旨のもとに荻江節真茂留(まもる)会が創立発足する一方、同年佐橋章(荻江露章(ろしょう))の妹前田すゑが5世露友を名のったことによる名跡をめぐり荻江会が分裂、2派に別れて存続している。
[林喜代弘・守谷幸則]
『竹内道敬著「荻江節考」(『三味線とその音楽』所収・1978・音楽之友社)』
三味線音楽の一種目。初世荻江露友(ろゆう)は長唄のうたい手だったが,1768年(明和5)に引退,吉原の遊郭で座敷歌風な長唄を創始(《水仙丹前》《百夜車(ももよぐるま)》など),荻江節の開祖となった。また〈めりやす〉の影響が強い作品(《稲舟(いなぶね)》《小町》《喜撰》など)もある。幕末に今日の荻江節の基礎を作った荻江里八(3世清元斎兵衛)が出て,地歌の曲《鐘の岬》《八島(やしま)》《山姥(やまんば)》などを取り入れ,また新曲《深川八景》《松》《竹》《梅》などを加えて,長唄からの独自性を強め〈荻江節〉を完成させた(それまでは〈荻江風長唄〉とか〈荻江流長唄〉といわれた)。4世露友没後は女性演奏家によって伝承されており,河東節,一中節,宮薗節とともに〈古曲〉の一つとなっている。荻江節は二上りか三下りを基本とし,長唄にくらべて抑制的・お座敷的で,合の手は少なく,囃子は入らない。上調子や替手もほとんど使わない。長唄の演劇的・舞踊的要素を取り去り,地歌風にしたところに特色がある。明治以前からの伝承曲は23曲。演奏時間の短いものが多い。
執筆者:竹内 道敬
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