富士田吉次(治) (ふじたきちじ)
長唄の唄方。3世を数えるが初世が著名。(1)初世(1714-71・正徳4-明和8) 長唄富士田派の流祖。宝暦(1751-64)末期から明和(1764-72)期にかけての長唄の名人。江戸乗物町伏見屋の主人初世都太夫和中から一中節(いつちゆうぶし)を学ぶ。のち歌舞伎俳優佐野川万菊の門弟となり,佐野川千蔵と名のる。舞台で箏の弾き語りや豊後節を語って好評を博したという。のちに一中節の太夫に転向して2世都太夫和中を名のった。1759年,ふじ田吉次郎と改めて市村座の長唄唄方となり,翌年,藤田吉次と改め,立唄(たてうた)となる。62年,富士田吉次と姓を改め,さらに吉治と改名する。俳名は楓江(ふうこう)。長唄に一中節,豊後節,義太夫節などの曲節を加味した唄浄瑠璃を創始し,さらに大薩摩節(おおざつまぶし)との掛合を始めるなど長唄に新機軸を生み出す。天性の美声で好評を博し,彼の長唄を聞くために観客が集まり,〈見物を呼ぶ唄うたひ古今稀れのものなり〉といわれた。三味線方の初世杵屋(きねや)忠次郎,2世杵屋六三郎,初世杵屋作十郎,初世藤間勘左衛門らと組んで《鷺娘》《娘七種(むすめななくさ)》《吉原雀》《安宅松(あたかのまつ)》などの名曲を残す。なお,実子の藤次郎は襲名せず,富士田千蔵を名のり初世となった(唄浄瑠璃)。(2)2世(1845-1919・弘化2-大正8) 本名上松吉兵衛。常磐津音羽太夫の子。初め6世富士田千蔵を襲名したが,1904年吉治の名跡を復活して2世富士田吉治と改めた。(3)3世(1872-1950・明治5-昭和25) 2世の娘上松たねが3世を襲名したが,没後その名跡は絶えている。
執筆者:植田 隆之助
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
富士田吉次(初代)
没年:明和8.3.29(1771.5.13)
生年:正徳4?(1714)
江戸中期の長唄唄方。富士田派の流祖。初代坂田仙四郎(一説には初代松島庄五郎)の門人。俳名楓江。宝暦~明和期(1751~72)の名人。はじめ江戸乗物町の伏見屋の色子となり,伏見屋主人の初代都和中 より一中節を学ぶ。享保年間(1716~36),歌舞伎役者佐野川万菊の弟子となって佐野川千蔵を名乗り,若衆形,若女形を勤め,特に舞台での琴の弾き語りや豊後節を語って好評を博した。宝暦7(1757)年,一中節の太夫として2代目都和中を襲名。9年にふじ田吉次郎と改名して長唄の唄方に転じ,翌年,早くも立唄となり,12年,富士田吉次と改め,さらに吉治と改名する。従来の唄浄瑠璃に一中節,豊後節,半太夫節などの曲節を加味した唄浄瑠璃「淡島」「与作」「安宅松」などを作曲。また2代目大薩摩主膳太夫と掛合(一曲の曲中を交互に演奏する形式)で「鞭桜宇佐幣」を演奏するなど,長唄界に新機軸を打ち出すとともに,三味線方の初代杵屋忠次郎,初代杵屋作十郎,初代藤間勘左衛門,2代目杵屋六三郎らと組んで「鷺娘」「娘七種」「吉原雀」「安宅松」などの名曲を作曲するなど,長唄史上画期的な人物である。非常な美声家であり,「木戸にて今は楓江じや楓江じやと呼ぶ故,見物この幕を待ちて楓江を聞きに来る。見物を呼ぶ唄うたい,古今稀れのものなり」と称せられるほどの人気があった。吉次名義は4代で絶えている。<参考文献>黒木勘蔵「富士田吉治評伝」(『近世日本芸能記』),町田佳声・植田隆之助『現代・邦楽名鑑 長唄編』,竹内道敬「富士田吉治研究」(『論集近世文学』2巻)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
富士田 吉次(2代目)
フジタ キチジ
- 職業
- 長唄唄方
- 本名
- 上松 吉兵衛
- 別名
- 前名=富士田 千蔵(6代目)(フジタ センゾウ)
- 生年月日
- 弘化2年 10月7日
- 出生地
- 甲斐国甲府(山梨県)
- 経歴
- 江戸長唄謡いの名家。父は常磐津音羽太夫、3代松永和楓の門弟。常磐津を学び、次いで長唄を岡安源次郎に師事、上京して和楓についてさらに長唄を磨いた。松永鉄十郎を名乗り鳥越の中村座、および新富座、明治座などに出演。地方巡業に出て静岡興行のとき、5代目千蔵を称した村田久七から富士田千蔵の名を譲り受け、明治32年6代目千蔵を襲名して立唄格になり、各座を転勤。37年富士田吉次の名を復活して2代目を継いだ。
- 没年月日
- 大正8年 4月19日 (1919年)
- 家族
- 父=常磐津 音羽太夫,息子=富士田 音蔵(5代目),娘=富士田 吉次(3代目)
富士田 吉次(3代目)
フジタ キチジ
- 職業
- 長唄唄方
- 本名
- 上松 たね
- 経歴
- 父、2代目富士田吉次の没後に3代目を襲名し、富士田の家元を預かっていたが、後継者がなく、昭和24年没して以来中絶している。
- 没年月日
- 昭和24年 (1949年)
- 家族
- 父=富士田 吉次(2代目)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
富士田吉次(吉治)
ふじたきちじ
長唄(ながうた)唄方。3世を数えるが、初世が著名。
[渡辺尚子]
(1714―71)富士田家の始祖。宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)期(1751~72)の名人といわれる。初世都太夫和中(みやこだゆうわちゅう)から一中節(いっちゅうぶし)を学び、また歌舞伎(かぶき)俳優佐野川万菊(まんぎく)の弟子となり佐野川千蔵を名のる。のち一中節の太夫となり、2世都太夫和中を襲名。1759年(宝暦9)長唄唄方に転向、ふじ田吉次郎を名のる。62年富士田吉次と改名、のち吉治となる。従来の長唄に、一中節、豊後(ぶんご)節、義太夫節などの曲節を取り入れた唄浄瑠璃(うたじょうるり)を創始し、また長唄と大薩摩(おおざつま)の掛合いを行うなど、長唄史上、画期的な人物である。『鷺娘(さぎむすめ)』『安宅松(あたかのまつ)』『娘七種(むすめななくさ)』『吉原雀(よしわらすずめ)』などの名曲を残している。2世(1845―1919)は6世富士田千蔵が1904年(明治37)に襲名し、3世は(?―1950)2世の娘、上松たねが襲名したが、その没後名跡は絶えている。
[渡辺尚子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
富士田 吉次(2代目)
フジタ キチジ
明治・大正期の長唄唄方
- 生年
- 弘化2年10月7日(1845年)
- 没年
- 大正8(1919)年4月19日
- 出生地
- 甲斐国甲府(山梨県)
- 本名
- 上松 吉兵衛
- 別名
- 前名=富士田 千蔵(6代目)(フジタ センゾウ)
- 経歴
- 江戸長唄謡いの名家。父は常磐津音羽太夫、3代松永和楓の門弟。常磐津を学び、次いで長唄を岡安源次郎に師事、上京して和楓についてさらに長唄を磨いた。松永鉄十郎を名乗り鳥越の中村座、および新富座、明治座などに出演。地方巡業に出て静岡興行のとき、5代目千蔵を称した村田久七から富士田千蔵の名を譲り受け、明治32年6代目千蔵を襲名して立唄格になり、各座を転勤。37年富士田吉次の名を復活して2代目を継いだ。
富士田 吉次(3代目)
フジタ キチジ
明治〜昭和期の長唄唄方
- 没年
- 昭和24(1949)年
- 本名
- 上松 たね
- 経歴
- 父、2代目富士田吉次の没後に3代目を襲名し、富士田の家元を預かっていたが、後継者がなく、昭和24年没して以来中絶している。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
富士田吉次(1世)
ふじたきちじ[いっせい]
[生]1714
[没]1771
長唄唄方,富士田派家元。富士田家の始祖で宝暦~明和年間の長唄の名人。初め歌舞伎役者で佐野川千蔵,のち一中節太夫となり,都太夫和中と名のった。宝暦9 (59) 年藤田吉次郎となり長唄唄方に転じ,同 12年富士田吉次と改め,さらに吉治と改名した。従来の長唄に一中節,豊後節などの曲節を加えて新たな唄浄瑠璃を創始,また掛合 (かけあい) という新形式を考案し,『鞭桜宇佐幣 (むちざくらうさのみてぐら) 』を大薩摩節との掛合で演奏し好評を博し,名曲『吉原雀』『鷺娘』などの作曲にも力を尽した。その後,6世富士田千蔵が吉治の名義を復活して2世吉治を名のったが,3世を経て4世の没 (1977) 後,名跡は絶えている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
富士田 吉次(2代目) (ふじた きちじ)
生年月日:1845年10月7日
明治時代;大正時代の長唄唄方
1919年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の富士田吉次の言及
【唄浄瑠璃】より
…浄瑠璃の味を持たせて歌う長唄。明和(1764‐72)のころ[富士田吉次](治)が歌い出した新傾向の長唄。それまでの長唄は二上りか三下りを基調としていたのに対し,浄瑠璃の基本である[本調子]で歌った長唄をさす。…
【長唄】より
…この時期の長唄唄方には坂田兵四郎,初世松島庄五郎,初世[吉住小三郎],三味線方には7代目杵屋喜三郎,初世杵屋新右衛門,初世杵屋弥三郎,初世杵屋忠次郎,囃子方には宇野長七などがいる。明和期(1764‐72)になると,一中節の太夫から転向した初世[富士田吉次](治)によって長唄に浄瑠璃の曲節を加えた唄浄瑠璃(例《吉原雀(よしわらすずめ)》《安宅松(あたかのまつ)》)が創始されたり,[大薩摩節](おおざつまぶし)との掛合(《鞭桜宇佐幣(むちざくらうさのみてぐら)》)も開始されて,長唄に新機軸を生みだした。また,この時期には9代目[市村羽左衛門]など立役(男役)にも舞踊の名手が現れ,舞踊は女形の独占芸という慣行が打破された結果,男性的な曲も生まれた。…
【吉原雀】より
…歌舞伎舞踊の曲名。長唄。本名題《教草(おしえぐさ)吉原雀》。1768年(明和5)11月江戸市村座の顔見世狂言《男山弓勢競(おとこやまゆんぜいくらべ)》の大切(おおぎり)に演ぜられた。作詞初世[桜田治助]。作曲初世[富士田吉治],初世杵屋作十郎。振付2世[西川扇蔵]。源義家の危難を,鷹の精が救うという筋にからみ,義家は男鳥売り(9世市村羽左衛門),鷹の精は女鳥売りという役柄で,[放生会](ほうじようえ)の故事から吉原の廓の諸分(しよわけ)をうたったもの。…
※「富士田吉次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」