日本音楽なる語は場合により広狭さまざまな意味で用いられるから、それを単に「日本の音楽」といいかえるだけではすまされない。
日本音楽はまず第一に「日本文化の一環としての音楽」と理解されるべきであるが、それでもなお解釈に幅がある。もっとも広義には今日の日本の西洋音楽をも含めていうこともある。しかし、もっとも多用されるのは最狭義で、西洋音楽を除き、近代の西洋音楽輸入開始以前からの伝統をもつ、ないしはその伝統に根ざした音楽をさしていう。西洋音楽が除外されるのは、それがやはり西洋文化の所産であり、規範が依然として西洋にあるからである。
ここでは、より多用される最狭義を採用する。その観点からすると、ある音楽様式が日本音楽であるためには次の3条件が必要である。〔1〕その様式が相当に長期間にわたって日本で行われてきたこと、〔2〕その間になんらかの意味で独自の発展がみられること、〔3〕日本的感性でとらえて日本独自のものと感じられること。以下この項目ではこの3条件を満たす日本音楽を扱い、なかでも古典音楽を中心にして解説する。
なお、近代以降には、日本と西洋の要素を融合したさまざまな音楽が現れてきた。それらも日本独特の音楽ではあるが、様相はなお流動的なので、まだ狭義の日本音楽に含めにくい。本項目ではそれらのうち近現代邦楽についてのみ言及する。また、沖縄を中心とする南西諸島の音楽および北方少数民族の音楽も、狭義の日本音楽とは別と考えて、ここでは扱わない。
[上参郷祐康]
日本音楽の類義語には邦楽、日本伝統音楽、日本古典音楽などがある。
日常もっとも多用される邦楽は、広義では日本音楽に等しく、狭義では雅楽(ががく)、声明(しょうみょう)、能などおよび民俗音楽を除外して、近世成立の遊芸的性格の音楽のみをさす。公的な場面では広義の用例が多いが、日常的には狭義が多い。狭義を強調する場合には近世邦楽という。
日本伝統音楽(略して伝統音楽)も広義では日本音楽と同義であるが、その硬い語感を避けて単に日本音楽ということが多い。狭義では明治以降の新作の類を除外する場合もある。
日本古典音楽の意味はさらに狭く、狭義の日本伝統音楽から民俗音楽を除いたものをさす。
[上参郷祐康]
日本音楽には数多くの種類があるが、その各種類がいわばそれぞれ別々に独立した形で存在する点に特徴がある。というのは、音階、旋律法、リズム、楽式、発声、楽器、楽譜、演奏形式、演奏の場、携わる人々(作曲者、演奏者、鑑賞者)等々の諸点で各種類の間に共通点が少なく、むしろ各種類の独自性が目だつことである。西洋音楽にもさまざまな種類があるが、上記の諸点では各種類の間に共通性が強く、全体が音楽として一体視されている。それとは対照的に日本音楽の種類は各個別々に存在する傾向が強く、音楽としての一体感は希薄である。実際、音楽の名で全体を総括する意識が生じたのは明治以後、西洋音楽輸入開始以来のことである。比喩(ひゆ)的にいうと、西洋音楽は同一民族同一言語の国家、対して日本音楽は多民族多言語国家、しかもそれぞれ独立性の強い多数の共和国よりなる連邦の観がある。したがって日本音楽全体の把握のために、各種類の存在の認識がまず肝要である。
日本音楽全体は、様式未確定の近現代邦楽を別扱いとすれば、まず大きく古典音楽と民俗音楽の2種に分けることができる。
[上参郷祐康]
古典音楽の全体的特徴としては、専門家による規範的な伝承、師弟関係の重視、都市中心的傾向で広域に普及、鑑賞芸ないし遊芸的性格、等々があげられ、それらの点で民俗音楽と対照的である。
古典音楽は多くの種目、流派に分かれる。種目とは主として様式の差異による種別で、多くは発生の歴史的事情および主たる使用楽器の差異とも関連している。流派は流(流儀とも)と派をあわせた称で、流と派の区別は微妙だが、いちおうの定義として、流は種目内の芸風の差異、派はその下位分類で流内での伝承系統の差異、としておく。家元制度は通常この流または派を単位として成立している。
流の発生時の芸風の差異が増大してやがて様式の差異に近くなったり、派による伝承系統の違いから芸風の差異を生じたりする例もあるので、種目・流・派という分類上の3段階の境界はかならずしも明確ではない。したがって種目と流派による分類は厳密な基準による科学的分類とはいえないが、日常よく慣用されて親しみやすく、種類間の親疎関係などもわかりやすいので、古典音楽全体の把握には便利である。
すでに伝承の絶えた種目・流派が音楽史上に多数あったことはいうまでもない。
[上参郷祐康]
日本音楽史を通観すると、5~8世紀と19世紀末葉~20世紀の2回にわたって外国音楽の国家的規模の摂取(大陸音楽と西洋音楽)がみられ、その間に挟まれた約10世紀においては、大陸音楽の日本化と日本独自の民族音楽の興隆発展がみられる。この観点から日本古典音楽の歴史を6期に時代区分して以下に略述する。
一般に日本音楽史では、新しい種目・流派は古いものの支流として派生し、新が旧を駆逐することなく両者共存し続けるのが通例であり、その点で新様式が旧様式にとってかわる西洋音楽史とは対照的であり、西洋音楽史を革命的変遷とよぶとすれば、日本音楽史は細胞分裂的変遷とよぶことができる。
以下の記述はいちおう時代別であるが、わかりやすくするために、種目・流派の成立のところでその後の変遷まで述べる場合もある。
[上参郷祐康]
原始民族音楽時代(?~4世紀) 大陸音楽伝来以前の時期。資料が乏しくて実態は不詳だが、記紀、風土記(ふどき)、『万葉集』などの文献や埴輪(はにわ)などによりある程度は知りうる。
この期の音楽は歌謡(声楽)中心で、祭祀(さいし)、農耕儀礼、民俗行事(歌垣(うたがき)など)などと結び付いたものが多い。後世の雅楽に含められる国風歌舞の各曲の原形もこの時期に発生した。楽器ではコト、フエ、ツヅミなどの存在が知られるが、それら和語の楽器名称は本来はそれぞれ弦楽器、管楽器、打楽器の総称なので個々の実態はよくわからない。五弦の板状のコト(和琴(わごん)の原形)の存在が埴輪などにより確認される。
[上参郷祐康]
大陸音楽輸入時代(5~8世紀) 大和(やまと)、飛鳥(あすか)、奈良の各時代にあたる。大陸の先進国から各種各様の音楽が輸入された。
5世紀中ごろからまず朝鮮半島の音楽の伝来が始まり、7世紀中葉までに新羅楽(しらぎがく)、百済(くだら)楽、高麗(こま)楽(総称して三韓(さんかん)楽)、伎楽(ぎがく)が伝来した。遣唐使派遣により中国文化直輸入が始まり、唐楽、散(さん)楽、踏歌(とうか)など唐の楽舞も7世紀末までに伝来し、8世紀には度羅(とら)楽(起源不詳)、林邑(りんゆう)楽(インド起源)、渤海(ぼっかい)楽が伝来する。これら大陸音楽は先進国文化の摂取の一環として国家的要請により積極的に輸入された。701年(大宝1)の大宝令(たいほうりょう)により雅楽寮(音楽所管の役所)が設置され、宮廷専属の楽人が置かれて、和楽と各種の外来楽を含む宮廷の音楽制度が整えられ、また東大寺などの諸大寺にも法会(ほうえ)の奏楽のための楽人が置かれた。仏教儀式の声楽である声明(しょうみょう)もこの期に伝来し、南都の各寺院で行われた。752年(天平勝宝4)の東大寺大仏開眼供養会は諸大寺の僧侶(そうりょ)数百人による大法要で、声明とともに供養の楽舞として各種の外来楽舞が雅楽寮や諸寺の楽人各数百人によって演奏された。
このほかに盲僧琵琶(もうそうびわ)もこの期に伝来したと言い伝えられる。これは、僧形(そうぎょう)の盲人が琵琶の弾き語りで経文を読唱する仏教音楽の一種で、鎌倉時代ごろまでは本州でも行われたようだが、のちには九州地方に限定され、いずれも天台宗の一派という薩摩(さつま)盲僧琵琶と筑前(ちくぜん)盲僧琵琶を二大系統(ほかに肥後琵琶などもある)として、今日も行われている。
[上参郷祐康]
大陸音楽消化時代(9~12世紀) 平安時代全体(古代後期)にあたる。遣唐使廃止(894)で大陸文化の輸入が止まり、前期に輸入された大陸文化の国風化が進み、各種の外来楽が種々の形で再編成され日本化された。この時期で重要なのは雅楽と声明である。
雅楽ではまず外来楽曲の楽器編成、音組織などが整理され規模が縮小された。その結果、外来楽の各母国による細かい区別が失われて左方唐楽(前代の唐楽に林邑楽をも含める)と右方高麗楽(三韓楽に渤海楽をも含める)の二大区分になり、その様式による日本人の新作曲も現れて、外来楽舞は様式、曲目両面でまったく日本独自のものになった。伝統的な和楽(国風歌舞)も外来楽の影響下に再編成され、外来楽器伴奏の2種類の声楽様式(催馬楽(さいばら)と朗詠(ろうえい))も発生した。これら各曲種の総称が雅楽であり、その大成は10世紀末ごろである。
平安時代には、雅楽は宮廷や寺社の儀式・行事の音楽として、また貴族の教養娯楽として盛行した。宮廷・貴族が力を失った次期以降には衰えるが、宮廷や大社寺に属した楽家の世襲で細々とながら伝承は保持され、江戸時代には幕府の保護で小康を保ち、明治維新でふたたび宮廷音楽として復興された。平曲(へいきょく)、箏曲(そうきょく)など雅楽を源流として発生した種目もあり、雅楽が後の各種目に与えた影響は大きい。
平安末期には流行歌謡として今様(いまよう)が盛行したが、そのなかには越天楽(えてんらく)今様など雅楽器楽曲の旋律に歌詞をあてたものもある。今様の歌詞集として後白河(ごしらかわ)法皇撰(せん)『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』が名高い。
声明では平安初期に新たに導入された天台宗と真言(しんごん)宗が以後の声明の二大系統となり、やはりこの時期に日本化が始まった。中国伝来の梵語(ぼんご)・漢語の声明(梵讃(ぼんさん)・漢讃など)もそのまま伝承されたが、それに加えて、日本人にも理解される日本語の声明の各曲種(和讃、講式、論義、祭文(さいもん)など)が発生する。浄土宗、浄土真宗、臨済(りんざい)宗、曹洞(そうとう)宗、日蓮(にちれん)宗、時(じ)宗、黄檗(おうばく)宗などその後に発生・伝来した諸宗派も、天台、真言の声明を摂取しつつ工夫(くふう)を加え、それぞれ独自の声明をもつに至り、声明は多様化して日本独自の仏教声楽になっていった。
上記の各曲種は各宗派で今日も演唱されている。ただし伝承は流動的で、中世以後もさまざまな変化があり、近代以後でも意識的改訂や無意識的変化が加えられた例もある。中世以後の他種目への声明の影響も大きい。雅楽が日本音楽の器楽面での源流であるのに対して、声明は声楽面の源流といえる。
[上参郷祐康]
民族音楽興隆時代(13~16世紀) 鎌倉、室町、安土(あづち)桃山の各時代、つまり中世にあたる。武家政治の時代になって貴族文化が衰退し、武家や庶民の文化、地方の文化が台頭する。この期に成立した種目には、平曲、早歌(そうか)、曲舞(くせまい)、田楽(でんがく)、猿楽(さるがく)(能)、浄瑠璃(じょうるり)、筑紫箏(つくしごと)、一節切尺八(ひとよぎりしゃくはち)、室町小歌(こうた)などがある。日本語に基づく民族的な声楽の種目が多く、とくに語物(かたりもの)が多い。この期の末には三弦が伝来した。
平曲は琵琶の弾き語りの音楽で、その歌詞がつまり『平家物語』である。盲僧琵琶に基づき雅楽と声明の影響を加えて13世紀初めに芽生え、14世紀末に確立した。14世紀に琵琶法師の職能団体「当道(とうどう)」が成立して室町幕府の公認を得て以来、平曲は当道の盲人音楽家の専門芸として独占的に伝承される。江戸時代にも当道は徳川幕府に認められて存続したが、平曲にかわって地歌(じうた)、箏曲が盲人音楽家の実際上の専門芸となり、名目的専門芸の平曲の伝承はしだいに弱まり、今日ではごく少数の人々が伝承するのみである。
早歌は無伴奏の語物で、13世紀末ころに明空という僧により大成された。公家(くげ)、武家、僧侶など上流階級に愛好され、14世紀にかけて隆盛したが、15世紀末ごろから衰退した。早歌の語りのリズム上の特徴が、曲舞を経て、能の謡(うたい)に影響している。
曲舞は語り舞(立って動き回りながら語る形式)の一種で、鎌倉時代におこり、南北朝時代まで流行した。その語り口は猿楽の能の謡に摂取されている。その一種である幸若舞(こうわかまい)は武将たちに愛好され、江戸時代には能楽とともに幕府の式楽となったが、明治維新で滅び、いまはわずかに福岡県の郷土芸能として残る。
田楽(でんがく)は、そもそもは豊作祈願の農耕儀礼の歌舞で、元来は農民が演じたものだが、平安時代にはそれを職業とする田楽法師が現れ、散楽の曲芸的要素を取り込んで、しだいに鑑賞芸能になった。鎌倉末期から南北朝時代にかけてはこれに劇的要素を加えた田楽能が流行する。田楽は猿楽能の大成にも影響を与えたが、室町時代以後は猿楽に圧されて衰退し、郷土芸能化したものが残った。一方、都市民衆も農民田楽を模倣して大規模で華美な行列や踊り(風流(ふりゅう))を行うようになり、これも盆踊りなど近世以後の郷土芸能につながる。
猿楽は散楽の劇的な面を源流としたもので、サルガクはサンガクの転化である。平安末期から鎌倉末期までは滑稽(こっけい)な物真似(ものまね)(写実的演技)中心の芸態で、これは後の狂言につながる。一方、鎌倉時代には法会での咒師(しゅし)の役目(声明演唱と所作)を猿楽の徒が代行することが始まり、これが猿楽の演目の一部(後の『翁(おきな)』につながる)となる。やがて演技より歌舞を重視する猿楽能が発生し、能と狂言の二種目併演形式が始まり、猿楽の座が各地に生まれた。南北朝時代には近江(おうみ)猿楽と大和(やまと)猿楽が隆盛であったが、室町初期の大和猿楽の結崎(ゆうざき)(観世(かんぜ))の座に観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子が現れ、田楽・曲舞・近江猿楽から歌舞的要素を大幅に摂取して芸風を大改革し、今日まで伝わる能の様式を大成した。
以来、大和猿楽は猿楽の代表となり、武家の愛好を受けて他の芸能を圧して流行し、江戸時代には幕府の式楽となった。以後、演目は固定化したが、芸態はますます洗練の度を加え、他種の音楽や芸能(郷土芸能をも含めて)にも大きな影響を及ぼした。明治以後は猿楽の称にかえて能(能楽)とよばれている。
浄瑠璃は最初は無伴奏の語物音楽として15世紀末ころに発生した。三味線楽としての多様な展開については次期の条で述べる。
筑紫箏(つくしごと)は箏曲(箏の弾き歌いを中心とする音楽)の始まりで、越天楽謡物(うたいもの)など雅楽系統の歌謡および中国(明(みん))の七弦琴を源流として、16世紀末に北九州で僧賢順により大成された。次期に俗箏が派生した以後は衰え、いまはごく少数が伝承するのみである。
一節切尺八は現行の尺八(普化(ふけ)尺八)の先駆的存在で、起源は不明だが15世紀ころから僧侶、隠遁(いんとん)者などの間で行われ、16世紀末ごろからは流派も発生して一般人にも普及したが、18世紀からは急速に衰えて滅びた。
ほかに、16世紀から17世紀にかけては小歌――後の小唄(こうた)(江戸小唄)と区別して室町小歌という――が流行した。歌詞集として『閑吟(かんぎん)集』『隆達(りゅうたつ)小歌集』などが伝わる。
三弦の伝来と三味線の誕生は日本音楽史上の重要事件である。三弦は永禄(えいろく)年間(1558~70)に琉球(りゅうきゅう)から堺(さかい)の港に到来し、琵琶の影響のもとに改造されて日本本土独自の三味線となった。三味線楽は次期に大幅に多様化し、三味線は近世邦楽の代表的楽器となる。
[上参郷祐康]
民族音楽大成時代(17~19世紀中葉) 日本音楽史の近世。江戸時代全体と一致する。中世から近世への推移で重要なのは音階の変化である。中世までは律音階(レミソラシの音程関係。半音なき五音音階)が主流だったが、近世以後はその変化形の都節(みやこぶし)音階(ミファラシドの音程関係。2か所に半音。陰音階、陰旋法とも)が圧倒的優勢になり、各種の近世邦楽に共通する代表的音階となる。
(1)三味線楽 三味線楽とは三味線伴奏による声楽の各種様式の総称で、地歌(じうた)(弾き歌い)以外の種目では声楽(唄または語り)と三味線は分担される。多くの種目・流派が現れたが、歌物と語物の2系統に分けられる。前者には地歌、長唄(ながうた)、下座(げざ)音楽、荻江(おぎえ)節、端唄(はうた)、うた沢、小唄が属し、後者には浄瑠璃が属する。
(イ)地歌 発生初期の三味線は様式不定の、はやり唄(うた)などの伴奏に用いられたが、16世紀末に現れた新様式の三味線組歌を最初の曲種として始まり、当道の盲人音楽家の伝承芸となったのが地歌である。17世紀中葉の京都の柳川検校(やながわけんぎょう)から柳川流、18世紀初葉の大坂の野川検校から野川流が始まる。地歌は生田(いくた)流箏曲と結合して三絃と箏の合奏音楽となり、一般素人(しろうと)も演奏を楽しむ家庭音楽として発展する。
(ロ)長唄 上方(かみがた)長歌(地歌の一曲種)に対して江戸長唄ともいう。初期の歌舞伎(かぶき)踊りの唄や上方長歌などを源流として18世紀初葉に江戸で成立し、さまざまな他種目の要素をも摂取しつつ、にぎやかな歌舞伎舞踊の音楽(唄、三味線に囃子(はやし)を伴う)として多彩な発展を遂げ、一般人の稽古事(けいこごと)としても広く普及した。
(ハ)下座音楽 歌舞伎科白劇の伴奏音楽で、長唄の唄・三味線・囃子が演奏し、通常の囃子のほかに多種類の打楽器を用いる。起源は古く、初期の歌舞伎踊りに能の囃子や鉦(かね)などを用いたところに始まるが、様式的確立は18世紀中葉である。三味線を用いない場面も多く、音楽だけの独立演奏は行われない特殊な種目だが、便宜上ここで扱った。
(ニ)荻江節 18世紀中葉に長唄の唄方だった荻江露友(ろゆう)が創始した。歌舞伎を離れて唄と三味線のみの座敷芸となった。
(ホ)端唄・(ヘ)うた沢・(ト)小唄 これらは短編歌曲の種目である。室町小歌ののち、江戸時代のはやり唄は三味線伴奏になり、端唄と総称される。幕末19世紀の江戸では端唄が大流行し、そこからうた沢(歌沢、哥沢)と小唄(江戸小唄)が成立した。これらは明治時代に宴席の音楽として隆盛し、これにつれて端唄も種目とみなされるに至った。
(チ)浄瑠璃 元来無伴奏だった浄瑠璃は、17世紀初頭のころに三味線伴奏となり、人形劇、歌舞伎と結び付いて多様化する。
17世紀初葉・中葉には上方にも江戸にも多数の太夫(たゆう)(浄瑠璃の声楽家)が輩出してそれぞれの芸風で語り、各太夫の名をとって何々節とよばれたが、芸風の伝承は続かなかった。この時期の浄瑠璃を総称して古浄瑠璃という。
芸風と流派名称の継承は、17世紀末葉に大坂の竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が創流した人形浄瑠璃義太夫節に始まる。義太夫節は今日も文楽(ぶんらく)の浄瑠璃また歌舞伎のチョボとして用いられ、素人の趣味としても盛行を続けている。
18世紀初頭には大坂の義太夫節、京都の一中(いっちゅう)節、江戸の半太夫(はんだゆう)節が各都市の代表的浄瑠璃であった。京都の都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)の一中節は当初は歌舞伎にも用いられたが、後の代には江戸に移って座敷浄瑠璃となった。
江戸半太夫の半太夫節はやがて弟子の十寸見河東(ますみかとう)の河東節に席を譲る。河東節は元来は歌舞伎の和事(わごと)の浄瑠璃だが、のちには座敷浄瑠璃中心(例外的に歌舞伎にも)になる。
同じころ歌舞伎の荒事(あらごと)の浄瑠璃として大薩摩主膳太夫(おおざつましゅぜんだゆう)の大薩摩節があったが、のちには衰退して長唄に吸収された。
都太夫一中の門弟の宮古路豊後(みやこじぶんご)は、分派独立して京都で豊後節を創流し、17世紀中葉に江戸に進出し、心中物を得意として大流行したが、風紀上の理由で厳しい弾圧を受けて1代で絶えた。しかし、その影響は甚大で、多くの浄瑠璃流派がその門流から派生した。
上方での分派には薗八(そのはち)節(宮薗(みやぞの)節)と繁太夫(しげたゆう)節がある。前者は江戸に移って座敷浄瑠璃化して細々ながらいまも存続し、後者はやがて衰滅したが、一部は地歌に摂取された。
弾圧以後の江戸の門流がおこした分派には新内(しんない)節、常磐津(ときわず)節、富本(とみもと)節、清元(きよもと)節の四流がある。富士松薩摩(ふじまつさつま)の新内節(流名は後の鶴賀(つるが)新内による)は劇場を離れて座敷浄瑠璃となり、常磐津文字太夫(もじたゆう)の常磐津節は歌舞伎出演を続けた。続いて常磐津節から富本豊前(ぶぜん)の富本節が分派し、のち19世紀初葉には富本節から清元延寿太夫(えんじゅだゆう)の清元節が独立する。富本節は清元節に押されて衰えたが、常磐津節と清元節は歌舞伎舞踊劇の浄瑠璃としていまも盛行している。
(2)箏曲 17世紀中葉の京都で八橋(やつはし)検校が筑紫箏の律音階の調弦を都節音階に改め、八橋流が成立する。以後の箏曲は当道の盲人音楽家の専門伝承となり、筑紫箏に対して俗箏(ぞくそう)(俗は一般普及の意味)とよばれたが、今日通常は単に箏曲と称する。17世紀末に生田(いくた)検校が八橋流から分派した生田流は、同じく当道の専門芸たる地歌と結合して箏と三弦の合奏を盛んにし、しだいに器楽的に発展して隆盛した。18世紀末葉に江戸の生田流の分派として山田検校がおこしたのが山田流で、箏を中心に独自の三味線(地歌とは異なる)で合奏し、浄瑠璃の味を摂取した語物風で声楽本位の新芸風を開拓して江戸を中心に普及した。以来、おおむね生田流は西日本、山田流は東日本と勢力を分けたが、現今では地域差は減少しつつある。
(3)胡弓(こきゅう)楽 胡弓は門付(かどづけ)芸や郷土芸能などにもあるが、専門芸としては地歌・箏曲の人々に伝承され、上方に生田流箏曲と結ぶ腕先(うでさき)流、江戸に山田流箏曲と結ぶ藤植(ふじうえ)流が生じた。
(4)尺八楽 17世紀後半から興隆した現在の尺八は、普化(ふけ)宗(虚無僧(こむそう)集団)の具だったので普化尺八とよぶ。普化宗は一般人の遊芸的吹奏や他楽器合奏(外曲(がいきょく))を禁止したが、実際にはしだいに一般にも普及し、18世紀には流派が現れ始める。明暗(みょうあん)諸派とは普化宗伝来の曲のみを吹奏する諸流派に対する便宜的な総称である。琴古(きんこ)流は18世紀中葉の江戸の虚無僧黒沢琴古に始まり、明治以後は外曲を盛んに奏して広く普及した。幕末の上方には宗悦(そうえつ)流など諸流があったが衰退し、その流れから明治中期に大阪で中尾都山(とざん)が都山流をおこし、急速に普及して琴古流と並ぶ大流派となる。のち大正期に宗悦流系統の竹保(ちくほ)流と、都山流から分派した上田流が、いずれも大阪で発生した。
(5)琴楽 単純な構造の一絃琴と二絃琴は、江戸時代後期に簡素古雅を尊ぶ復古的風潮からおこって一部に広まったが、いまは奏者は少ない。
(6)琵琶楽 薩摩琵琶は、16世紀末に薩摩盲僧琵琶を世俗化し薩摩藩武士の教養音楽としたもので、江戸時代には薩摩の地方音楽だったが、明治以後に全国普及した。やがて永田錦心(きんしん)の錦心流が分派独立してからは旧系統を正派とよぶ。昭和に至り錦心流から錦(にしき)琵琶が分派した。筑前琵琶は筑前盲僧琵琶の世俗化で、薩摩琵琶の普及に刺激されておこり、やはり明治以後に全国に普及した。
[上参郷祐康]
西洋音楽輸入時代(19世紀末葉以降) 明治維新から現代まで、一般にいう近代と現代にあたる。明治維新による政治・社会制度の改革と欧米文化の輸入により、日本音楽の世界にもさまざまな変化が引き起こされた。
制度の改変で雅楽は皇室の式楽として復興されたが、武家の式楽だった能楽、当道と普化宗の独占を認められていた箏曲・地歌界と尺八界は、旧制度の保護を失って大打撃を受ける。それらの種目では一時は専門家の廃業・転業が相次いだが、やがて各種目それぞれに新方向をみいだし、一般愛好者に普及するようになる。
明治期の箏曲界では新時代賛美の風潮に即した新曲(明治新曲)が多数現れ、尺八界では三曲合奏が盛んになり、器楽的傾向がしだいに強まってその後の近現代邦楽につながる。
三味線楽のうち興行(歌舞伎、人形劇)と結び付いていた長唄、義太夫節、常磐津節、清元節では、制度改変の直接影響は受けずに盛行を続けるが、概して新時代に適合すべく上品化を目ざし、江戸時代的な卑俗な趣味を脱する傾向が強くなる。また、明治中期の長唄には、歌舞伎を離れて演奏会活動を主とする派が現れ、この活動は長唄の音楽としての自立を大いに促して大正期以後の近現代邦楽につながる。
興行以外の三味線楽では、新内節に新作曲が続々と現れること、小唄、端唄、うた沢、俗曲などの短編歌曲類が宴席の音楽として興隆したことが目だつが、その他の種目・流派には格別の動きはなく、いわば保存状態で伝承が続く。そのなかでさまざまな種目・流派の味わいを融合した新しい三味線楽(非劇場音楽)として明治中期に東明(とうめい)流が発生し、その影響下に昭和初期に大和楽(やまとがく)が発生した。
新制度・新風潮と並んで西洋音楽の輸入の影響はもちろん大きい。とくに学校の音楽教育が西洋音楽を基礎として今日まで続いた結果、日本の音楽界はしだいに西洋音楽偏重に傾き、伝統音楽はいわば陰の存在に押しやられた。しかし日本音楽に携わる人々は、それぞれの立場で伝承を守り続け、かつ時代に適合する道を探る努力をいまも続けている。後述する近現代邦楽はそうした努力のもっとも顕著な一面である。
[上参郷祐康]
郷土芸能(民俗芸能)の音楽と民謡(童唄(わらべうた)を含む)がここに含まれる。
民俗音楽の全体的特徴としては、地域的に限定される、地域共同体における生活・習俗・行事などとの結び付きが強い、作曲者が問題にされない、専門家が存在しない、規範性が希薄で伝承が流動的、歴史的には記述しにくい、等々の諸点があげられる。
郷土芸能は全国各地に多種多様なものがあるが、ほとんどが単なる娯楽ではなく、神事、仏事、地域共同体の行事(農耕儀礼など)の一環として行われる。雅楽(神楽(かぐら)、舞楽)、田楽、能楽などと同一源流をもつものも多く、また、歌舞伎や人形劇の原形的存在や地方的変形もあって、古典音楽との比較の意味で興味深い。
郷土芸能に関しては本田安次(やすじ)(1906―2001)の五分類――神楽、田楽、風流、祝福芸、外来系・延年系に五大分し、さらに細分する――が広く通行しているが、音楽面からの分類は確立されていない。
民謡も各地に多種多様なものがある。起源は新旧さまざまで、各時代の古典音楽との交流や地域間の交流・伝播(でんぱ)もみられ、近現代の新作もある。現代では民謡専門の職業歌手や、素人(しろうと)愛好者を教える民謡教室も出現し、地域を超えて愛唱される曲も多く、民謡が古典音楽の1種目に近い存在になりつつある。
分類としては、場面と歌唱者に基づく柳田国男(やなぎたくにお)の十分類――田歌(たうた)、庭(にわ)歌、山(やま)歌、海(うみ)歌、業(わざ)歌、道(みち)歌、祝(いわい)歌、祭(まつり)歌、遊(あそび)歌、童(わらべ)歌――がよく知られるが、音楽様式の面では吉川英史(きっかわえいし)・小泉文夫の二分類――八木(やぎ)節様式(拍節的リズム。メリスマが少ない)と追分(おいわけ)様式(非拍節的リズム。メリスマが多い)――がある。
[上参郷祐康]
日本音楽に西洋音楽的要素を摂取した新傾向の作曲活動は、箏曲、尺八、長唄など近世邦楽の一部の種目からおこった。ここでは、20世紀前半の各種の新作曲活動を近代邦楽、20世紀後半のものを現代邦楽とし、両者あわせた称として近現代邦楽とよぶ。
近代邦楽では、1910年代(大正時代)にまず箏曲・尺八界から宮城道雄(みやぎみちお)らを中心として「新日本音楽」と称する新作曲活動がおこり、ついで長唄界からは4世杵屋佐吉(きねやさきち)の新様式「三絃(げん)主奏楽」が現れた。
新作活動は箏曲・尺八界でもっとも盛んで、昭和期に入ると新日本音楽に追随する者が多く現れ、また中能島欣一(なかのしまきんいち)などの新たな傾向の作曲も現れた。三味線音楽畑ではやや遅れるが、長唄界を中心に新作曲を目ざす人々が出る。これら昭和前半期の新作活動では、西洋音楽の摂取の幅も広がり、さらに従来の種目・流派の枠を超えた新しい楽器編成の曲なども現れて急速に多様化したので、もはや単一の運動としてはとらえにくくなり、さまざまなものをまとめて新邦楽、創作邦楽などと総称された。
第二次世界大戦後、とくに1950年代からは、伝統音楽が再評価されて多くの洋楽系作曲家が邦楽器を用いて作曲するようになり、西洋の現代音楽に倣った「現代邦楽」の名称が一般化した。その作品数はすでに1000曲を超え、洋楽と邦楽の別を超えた日本独自の現代音楽として発展しつつある。
[上参郷祐康]
『吉川英史著『日本音楽の歴史』(1965・創元社)』▽『吉川英史監修『邦楽百科辞典――雅楽から民謡まで』(1984・音楽之友社)』▽『田辺尚雄・岸辺成雄他編『音楽大事典』全6巻(1981~83・平凡社)』▽『岸辺成雄著『日本の音楽』(1972・日本放送出版協会)』▽『吉川英史著『日本音楽の性格』(1979・音楽之友社)』▽『岸辺成雄他監修『邦楽大系』全13巻(1970~73・筑摩書房)』▽『吉川英史他監修『日本古典音楽大系』全8巻(1980~82・講談社)』▽『吉川英史監修『日本音楽の手引き』(1972・カワイ楽譜)』▽『久保田敏子著『点描 日本音楽の世界』(1985・白水社)』
日本人が作曲し演奏した音楽のすべてを〈日本音楽〉といえるが,しかし,実際には,もっと限定した意味で〈日本音楽〉の語は用いられる。広義には,日本人が作曲した洋楽器で演奏する西洋音楽系の音楽(いわゆる〈洋楽〉)も含むが,これを除いた日本の伝統音楽のみを指すほうが一般的である。この意味で,〈日本音楽〉と〈日本の音楽〉を区別することもある。つまり,洋楽系の日本人の音楽は,〈日本の音楽〉というが,〈日本音楽〉とはいわないという考え方である。
この〈日本音楽〉には,いわゆる邦楽のほかに,民謡,童歌(わらべうた),民俗芸能の音楽などの民俗音楽や唱歌(しようか),軍歌,童謡,歌謡曲なども含まれることがある。このうち,民俗音楽は広義の〈邦楽〉に入れることもあるが,唱歌,軍歌,歌謡曲などは〈邦楽〉には入れないのが普通であるだけではなく,後述のように洋楽に扱うこともある。〈邦楽〉はさらに狭義に使われることもあって,雅楽,声明(しようみよう)(仏教声楽),平曲,能楽,および浪曲などは含まれないこともある。つまり,最狭義の〈邦楽〉には,三味線,箏(そう),尺八などを使う近世の邦楽(〈近世邦楽〉としばしばいわれる)だけが含まれるという考え方が行われている。
日本の音楽を分類すると,まず前述の狭義の〈日本音楽〉,すなわち伝統音楽と洋楽とに大別される。伝統音楽はさらに,雅楽,能楽,近世邦楽などの芸術音楽と民俗音楽とに分かれ,洋楽も芸術音楽や教育音楽の分野と,よりポピュラーな大衆音楽の分野に分かれる。大衆音楽は,欧米をはじめ諸外国の音楽の直接的な影響下にある音楽と,日本独特の音楽的性格をもつ歌謡曲などとに分かれる。
日本は島国であるため,外国との交通が不便であったことと,平安中期には故意に遣唐使を廃止したり,江戸時代には厳しい鎖国政策がとられたりしたので,日本の音楽は,ある長い期間外国音楽の影響を受けないで独自の発展をみせたことがある。しかし,一方では日本人の外来文化に対する模倣性,謙虚さ,熱心さは,盲目的に外国音楽を受け入れる時期もあり,それがしだいに日本の趣味により変化し,日本的に消化されるのが常である。したがって,日本音楽の歴史は,外国音楽直輸入時代,その消化時代,民族音楽発展時代の3段階の反復であるといえる。この立場から,日本音楽の歴史を以下8期に分けて述べる。
原始日本音楽時代 楽器の出土例がみられる弥生時代から飛鳥時代までにあたるが,楽曲や楽譜が残っていないので明確にはわからない。《古事記》《日本書紀》《風土記》《万葉集》《隋書》倭国伝などの文献中の断片的な記事や,少数の楽器やその演奏を写した埴輪(はにわ)などの出土品により,また日本周辺民族の音楽(台湾の原住民の音楽,南洋諸島の音楽)やアイヌ音楽などとの比較類推により,想像するほかはなく,次のように結論されている。歌謡中心の音楽で,伝承歌謡のほかに即興歌謡も多く行われた。楽器は主として伴奏に用いられ,弦楽器には5弦の小型の琴があったが,やがて大型の6弦の琴に変わった。これが和琴(わごん)または大和琴(やまとごと)と呼ばれるものである。この変化は改革ではなく,別系統の琴の制覇ではあるまいか。ほかに竹製横吹きの笛と皮を張った打楽器があった。前者は〈やまとぶえ(大和笛,倭笛)〉と呼ばれ,後者は〈つづみ(鼓)〉と呼ばれる。鈴も喜ばれたらしい。1943年,静岡市郊外の登呂遺跡から,小型の5弦琴らしいものが発見されたが,その後,千葉県,滋賀県,福岡県などからも発掘された。福岡県春日市出土の琴は,1.47mの大型の6弦琴で,裏板をもつ箱形に発達しており,弥生時代後期といわれる。この時代の音楽は宗教または信仰に奉仕するものが多かったことと,文字のない時代のこととて,記録の代用にもなったことは注意すべきである。たとえば《古事記》の大部分は,暗唱され,朗唱された長編の叙事歌謡であったとみられる。この期の末には,大陸から新羅楽(しらぎがく)や百済楽(くだらがく)が伝来したが,それらは来日外人によって奏されただけで,日本人が学ぶようなことはなかったようである。
大陸音楽輸入時代(7~8世紀) 612年(推古20)百済の味摩之(みまし)がきて,少年たちに伎楽(ぎがく)を教えた。これが文献上明らかにされている日本における外国音楽教習の最初である。その後,高句麗(こうくり)(新羅,百済の音楽と合わせて三韓楽といった),唐,度羅(とら)(今のタイ国メナム川流域にあった古代国家であるとする説が有力),林邑(りんゆう)(今のベトナム中部),渤海(ぼつかい)(今の中国東北部)などの諸国から外来楽舞が相ついで輸入され,日本人によって演奏されるようになった。他方では,前代の祭祀楽舞をはじめ原始日本の音楽は,しだいに前述の外国音楽の影響を受けて整理・改編された。律令制のもとで設立された音楽官庁の雅楽寮では,これらの外国音楽と伝統音楽との両方が扱われ,これらを雅楽と呼び,民間の俗楽と区別した。
大陸音楽消化時代(9~12世紀) アジア大陸の諸地方から輸入された前述の音楽は,それぞれ音階や楽器などが違っていたので,これを整理・統合する必要が感じられた。また,それらが全面的に日本人の趣味や感覚に合ったものとはいえなかったので,日本的に改めるべき点も多かったらしい。このために9世紀半ば,仁明天皇のころから約半世紀にわたって,いわゆる楽制改革が行われた。この運動の一環として,外国音楽の様式に日本の歌詞をはめこんだ催馬楽(さいばら),さらにそれが日本的になった朗詠の2種の新声楽が生まれた。また,宮中の祭祀楽も御神楽(みかぐら)として,その形態が整えられ,雅楽の中に含まれるようになった。これらは貴族の音楽であるが,民衆の音楽としては田楽(でんがく),猿楽(さるがく),雑芸(ぞうげい)などが行われた。雑芸の歌謡の中には,貴族の間の流行歌謡ともなった今様(いまよう)も含まれる。しかし,田楽,猿楽が真に流行しその芸質を高めるのは次の第4期においてである。一方,雅楽と同じころ輸入された仏教音楽の声明も,雅楽と同じようにこの期において日本化され,日本声明ともいうべき講式や和讃(わさん)が生まれた。
民族音楽興隆時代(13~16世紀) 鎌倉時代の実権を握った武士の間では,平家琵琶(平曲)という琵琶の伴奏で《平家物語》という長編の叙事詩を語る音楽が流行した。この時代に新しく始まった歌謡に早歌(そうが)がある。僧徒や武家の上層階級がたしなんだもので,後の能の謡(うたい)に大きな影響を与えた。また前期には社寺の祭礼などに行われていた単純な庶民的芸能であった猿楽や田楽が,しだいに演劇的に発達して,猿楽能,田楽能と呼ばれるようになったが,とくに前者は室町時代に入り,大和猿楽の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子によって長足の進歩を示した。この猿楽能は,田楽能の衰亡により,後には単に能といえば猿楽能を指すようになった。そして,前期に包含していた滑稽(こつけい)な要素は狂言が継承し,能は厳粛さや悲劇的要素を主とするようになった。この猿楽能に似た曲舞(くせまい),幸若舞(こうわかまい)などもこの期に盛んに行われた(今では北九州の一部やその他に郷土芸能として残っている)。以上はすべて武家社会の芸能である。
室町時代の中期には小歌(こうた)といわれる流行歌(はやりうた),後期には浄瑠璃という語り物が興った。それらは室町時代の末期に輸入された三味線と結びつくことによって,次の第5期で大いに発展することになる。また尺八も輸入され普化宗(ふけしゆう)の仏徒(虚無僧)によって行われた。尺八の同類である一節切(ひとよぎり)も輸入され,このほうは一般庶民の楽器として,箏や三味線と合奏されたり,流行歌や民謡を吹くことにも用いられた。また,僧徒の遊宴で行われていた延年と称する総合芸能の中に〈越天楽歌物〉も含まれていたが,それらに基づいて北九州に筑紫流(つくしりゆう)箏曲(筑紫箏)が興った。社会的にも混乱の時代であった室町後期は,芸能の面においても混乱の時代であったといえる。
民族音楽大成時代(17~19世紀中期) 江戸時代全体がこの時代に入る。前期の末に入った三味線が,一方では浄瑠璃,他方では歌(唄)と結びついて,いろいろな流派に分かれて発達した。なかでも浄瑠璃は江戸時代の初期に,人形と結びついた人形浄瑠璃の音楽と,歌舞伎と結びついた歌舞伎の音楽とに分かれて発展した。前者の代表は義太夫節であり,後者の代表は常磐津節(ときわづぶし),清元節などである。歌のほうは,三味線組歌を最古の三味線芸術歌曲とし,これから京坂地方の三味線歌曲である地歌が発達した。また歌舞伎とともに発達した歌が,長唄である。長唄は,江戸時代後期には大薩摩節(おおざつまぶし)という浄瑠璃を併合したり,お座敷長唄という歌舞伎から離れた演奏会長唄ともいうべきものを生じたりして,芸域を拡張した。また,江戸時代初期に八橋検校という盲人が筑紫流箏曲をさらに近代化して箏曲として大成し,当道(とうどう)という盲人の組織にのせて普及した。その孫弟子生田検校が,地歌三味線曲に箏を合わせることを始めたと伝えられるが,早くから箏曲は地歌と結合して発達した。江戸時代中期には山田流箏曲が江戸に誕生した。浄瑠璃風を加味した歌本位にした点と,伴奏を箏本位にした点に特色がある。江戸時代末期には民謡が都会地で俗謡として流行したり,寄席の音曲として俗曲が行われたが,三味線伴奏の大衆的な小編歌謡も隆盛になり,その中の端唄が技巧化して一流としての旗揚げをしたのがうた沢である。また清元の曲風を受け,テンポも早間(はやま)になったものが江戸小唄(小唄)で,これは次の期にさらに発達し,第2次世界大戦後にも非常な流行をみている。要するに,この第5期は庶民音楽の盛んな時代であるが,武士はやはり能を,公家(くげ)貴族は雅楽を式楽としてもっていた。また,この期には家元制度が発達し,それは芸人社会の制度ばかりでなく,芸の本質にも大きな影響を与えている。
洋楽輸入時代(19世紀後期~20世紀初期) 明治時代全期を指す。明治維新により欧米との交渉が開け,洋楽と清楽(前代の明楽を吸収して明清楽(みんしんがく)ともいう)が輸入された。もっとも,洋楽は室町末期にキリスト教とともにキリシタン音楽として伝来し,日本人も習ったりしたが,まもなく鎖国となり,まったく行われなくなった。その後は慶応年間(1865-68)に薩摩藩が軍楽を学んだのが最初で,1879年には文部省の音楽取調掛が設けられ,初等教育の音楽の調査研究が,アメリカの音楽教育家L.W.メーソンの援助によって行われた。そのころから洋楽の輸入は本格化した。他方,明治維新により,能の保護者であった武家階級が没落したために,能楽界は一時混乱したし,1871年(明治4)普化宗と当道が廃止され,尺八は普化宗の虚無僧たちの独占楽器でなくなり,箏曲の教授は盲人音楽家の独占職業でなくなった。このためこれらに関係する人たちは一時生活を脅かされることになったが,やがて世間が落ち着いたときには,能楽,尺八,箏曲などすべて鑑賞層が広がり,かえって邦楽人口を増す結果となった。その間,洋楽は学校教育に採用されたので,急速に普及することになり,その風潮を反映して邦楽も直接間接洋楽の影響を受けた。その先駆をなしたのは大阪を中心とする箏曲の〈明治新曲〉であり,二部合奏形式を採るなど洋楽的手法も採用した。そして江戸情緒や遊里趣味の歌詞からの脱却は,箏曲ばかりでなく,長唄,常磐津,清元など全体に通ずる新傾向であった。箏曲界に次いで洋楽の影響を多く受けたのは長唄である。なお,この期の邦楽界に新しく加わったものとしては,薩摩琵琶,筑前琵琶,都山流(とざんりゆう)尺八,浪花節(なにわぶし)などがあげられる。薩摩琵琶は仏教寺院の法要琵琶であった盲僧琵琶をもとに室町末期から武家の教養音楽として薩摩藩に発達したものであるが,明治維新による薩摩出身者の東京進出により,郷土芸能であった薩摩琵琶も東京に紹介され,全国的な芸能になった。筑前琵琶はそれより少し遅れ,東京に進出して同じように全国的に流行するようになったが,これは1890年ころに,筑前の盲僧琵琶を基礎に,薩摩琵琶と三味線音楽を参考にして新様式の音楽として誕生したものである。都山流尺八は1896年中尾都山により大阪に興り,楽譜の改革,新曲の作曲,教授法の改良などが時勢に適合し,全国的に普及して,普化宗時代に一流を創始した黒沢琴古の琴古流をしのぐ勢いとなった。浪花節は門付の貝祭文,ちょぼくれ(ちょんがれ)などの変化したもので,明治中期までは大衆的大道芸で,せいぜい寄席に出るくらいであったが,桃中軒雲右衛門や吉田奈良丸の出現によって,芸質を高め,大劇場に進出することになった。
洋楽消化時代(20世紀初期~第2次世界大戦) 明治時代の洋楽直輸入時代を終わり,大正時代以後はその消化時代となり,洋楽系の作曲家の中にもしだいに日本的な作風を打ち出す人が出てきた。一方,宮城道雄,中尾都山を中心とする新日本音楽運動が興り,洋楽を加味した邦楽が全国的に普及した。こうして,洋楽と邦楽はだんだん接近する傾向が生まれた。また邦楽の海外進出が本格的になったのも,この第7期からである。またこの期になって,レコードやラジオの発達が邦楽に及ぼした影響も大きく,従来狭い流派の中に閉じこもっていた鑑賞者は,ようやく自己の所属する流派以外の邦楽も聴くようになった。
第2次世界大戦以後 音楽には一般に民族主義的傾向が強くあらわれているが,日本でも国粋主義の立場からでなく,日本の伝統音楽を再認識し,尊重する傾向があらわれた。いわゆる古典邦楽は次々と重要無形文化財に指定されたし,普通教育の音楽教科の中には,少しではあるが,日本の伝統音楽がとり入れられた。そして,洋楽系の作曲家と考えられている人たちも,伝統音楽の本質を新しい技法と感覚で表現する作品を作りだすようになった。こうして作品そのもので,邦楽家と洋楽家とがいっそう深いところで手を握るようになっているばかりでなく,もはや洋楽とか邦楽とかの区別のできない〈現代の日本音楽〉の合奏においては,洋楽器の演奏家と邦楽器の演奏家とが,対立的な意識をもたず,同じ音楽家として演奏活動をするようになってきている。
日本の民俗音楽は,民謡,童歌,民俗芸能の音楽の3種に分かれる。民俗芸能は全国各地で民俗行事の中に行われる伝統的な諸芸能を指す。日本の伝統音楽は一般に音楽独自の様式を発展,完成するよりも,演劇や舞踊などと結びついた芸能の形をとって発展する傾向がきわめて強かったが,その発展の母体となってきたのが民俗芸能で,能や歌舞伎なども民間で行われていた芸能がしだいに芸術的に洗練され完成されたものである。現在各地に行われている神楽,田楽,風流(ふりゆう)などの民俗芸能の音楽には,現在の芸術音楽にはすでに見られないような古い大陸の音楽文化の影響や能・歌舞伎の音楽の先行形態も残っており,芸術音楽よりもはるかに多くの種類の音楽が行われており,日本音楽史上きわめて重要な地位を占めている。また,日本の民俗音楽においては歌の占める比重がたいへんに大きい。その歌は作詞者も作曲者もわからない(あるいはわかっても誰であるかは問題にならない)ようなものが,文字や楽譜によらず,口から耳へと伝えられる。そのような歌を民謡と呼び,明治以前は,俗謡,俚謡,田舎(いなか)歌,地方歌,在郷(ざいごう)歌,巷謡,さらに古くは風俗(ふぞく),国風(くにぶり)歌などと呼ばれた。また,とくに子どもの歌う〈童歌〉も,広くは民謡の中に含めることができる。
民謡の発生は,音楽史的にいえば,逆に芸術歌謡が発生したときに,これと区別されるものとして起こったといえる。それ以前の古い時代には,民謡と呼ぶべきものはあっても,民謡として意識はされない。つまり,職業的な専門家が芸術歌謡を作りはじめたときに,民衆が作りかつ歌う歌謡が〈民謡〉として区別されたはずである(〈民謡〉という言葉はまだ存在しなかったにしても)。この意味での民謡は,日本では《古事記》や《日本書紀》の時代にはすでに発生していたと考えられる。しかし記紀の民謡は,物語に挿入されているものであるから,歌詞を変えてとり入れているものがあることは注意を要する。この意味では,記紀の自由な場の歌よりも,儀礼の場の歌のほうが忠実に伝えられている。記紀は宮廷中心の歴史であり,物語であるから,民謡の記載が少なく,ことに労作歌などは見られない。確実に民謡とみなされる代表的なものは,《風土記》の歌垣(うたがき)の歌で,これは関東地方では嬥歌(かがい)と呼ばれた。《日本書紀》には,〈時人の歌〉5首とわざうた(童謡)11首があり,前者は事件に対する批判や賛美の歌,後者は社会的・政治的事件の前兆の歌として記載されるが,近年の説では,後者は民謡を編者が故意に事件に結びつけたものと解されるようになった。また記紀に次ぐ《万葉集》巻七,十,十一,十二,十三,十四,十六の中にある作者不明の歌の多くは,民謡であるか,作者はあるにしても当時の人々の共有のものとして扱われた歌である。以上を古代前期の民謡とすれば,古代後期の民謡は,神楽歌,催馬楽,風俗(ふぞく)など,それらが宮廷の儀式歌謡化したものが今日少し伝えられている。しかし,一般に古代の民謡は,その曲節はむろんであるが,歌詞も残されているものが非常に少ない。
中世の前期には,今様とか雑芸(ぞうげい)と呼ばれる歌謡があり,それは《梁塵秘抄(りようじんひしよう)》の中に見られるが,純粋の民謡と思われる田歌,棹歌(さおのうた)(舟歌),満固(まご)(馬子歌)などの歌詞はあげられていない。この期に盛んになった田楽には,民謡が多くとり入れられたことが想像される。中世後期の民謡は,〈小歌〉と呼ばれるものの中に見られる。《閑吟集》《宗安小歌集》《隆達小歌集》の中には,民謡的な小歌が相当含まれている。しかし,純粋な民謡を集めたものとしては,中国山地の田植歌を集めた《田植草紙》が代表的なものであろう。
現在民謡と呼ばれる歌の99%は,近世つまり江戸時代の所産である。この期の民謡の歌詞は,都会地流行の歌謡とともに,《糸竹初心集》《淋敷座之慰(さびしきざのなぐさみ)》《大ぬさ》《松の葉》などに収められ,《大ぬさ》《糸竹初心集》には楽譜も記されている。しかし,純粋な民謡を集めたものとしては,《山家鳥虫歌》《鄙迺一曲(ひなのひとふし)》,鹿持雅澄(かもちまさずみ)編の《巷謡編》(1835)などが有名である。いずれにしても近世では,三味線や尺八を伴奏とする民謡が多くなったことと,それらの楽器の影響を受けて民謡が音楽的に変化したこと,7・7・7・5調の歌詞が多くなったことなどが注目される。
近代には前代から受け継いだ民謡を保存するほかに,新しい民謡を生み出すこともあった。いわゆる〈新民謡〉の中には北原白秋作詞,町田嘉章作曲の《ちゃっきり節》(1927)のように,本当の民謡と思いこまれているものさえある。また,民謡の研究が本格化したのもこの時代で,民謡の分類・採集・採譜が盛んに試みられた。第2次世界大戦後は,放送の刺激により,〈民謡ブーム〉〈民謡復興〉といわれる時代になった。専門の民謡歌手,民謡酒場,民謡研究書などの出現が注目される現象である。なお,民謡の演奏が本来のローカル・カラーや素朴な味を逸脱して技巧化し,芸術歌曲化し,同一化の傾向にあることも見逃せない。
→民俗芸能 →民謡
執筆者:吉川 英史
日本に最初に西洋音楽が入ってきたのは,16世紀中葉,室町時代末期のことである。ポルトガルやスペインのキリスト教の伝道者が,この時期に,西洋のルネサンス時代の宗教音楽と楽器を日本にもちこみ,オルガン音楽や〈歌ミサ〉が演奏されはじめた。しかしこうした〈南蛮音楽〉や〈キリシタン音楽〉の輸入と紹介は,1587年(天正15)の禁教令と1639年(寛永16)の鎖国政策によって中断され,本格的な西洋音楽の移入と学習は,1868年(明治1)の明治維新以後に開始された。明治初期の洋楽の輸入は,まず軍楽隊の編成から始まる。薩摩藩の藩兵は,イギリスのフェントンJohn William Fenton(生没年不詳)の指導で69年軍楽隊を結成し,続いて陸軍,海軍の軍楽隊が誕生し,ドイツ人エッケルトFranz Eckert(1852-1916)らが教師として招かれた。洋楽の輸入と学習は,音楽教育の分野でも開始され,アメリカ留学から帰国した伊沢修二らの努力で,79年10月,文部省の所属機関として教材作成,教員養成のための音楽取調掛が設置された。これは87年10月には〈優等ノ芸術家ヲ養成シ,且最良ノ音楽ヲ拡散普及スル〉ために東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)へと発展した。西洋音楽は学校教育にもとりいれられ,一般の人々の間に急速に普及することになった。
東京音楽学校で学んだ山田耕筰は,1910年から13年までドイツのベルリン王立高等音楽学校に留学し,声楽や作曲を学びながら,オペラやオーケストラなどの公演に接し,帰国後に本格的な音楽活動を開始した。山田は15年に東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設,24年に日本交響楽協会を組織し,26年からは定期演奏会を開始するなど,日本のオーケストラ活動の基礎をつくり上げた。また作曲家としての山田は,滝廉太郎,信時潔,菅原明朗(1897-1988)らとともに,日本の創作界の基礎もつくった。しかし第2次世界大戦前の日本の音楽家の活躍は,ほとんどの場合国内に限られていた。戦後の新しい世代の音楽家は,欧米の作曲や演奏のコンクールに挑戦して好成績をおさめ,世界の超一流のオーケストラを指揮している指揮者の小沢征爾,世界の作曲界の注目を集めている作曲家武満徹のような人々が輩出するようになった。
→歌謡曲 →軍歌 →童謡
執筆者:船山 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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