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日本音楽 ニホンオンガク

5件 の用語解説(日本音楽の意味・用語解説を検索)

デジタル大辞泉の解説

にほん‐おんがく【日本音楽】

日本の伝統音楽。狭義には雅楽声明(しょうみょう)能楽琵琶楽・尺八楽・箏曲三味線楽などの邦楽をいい、広義には洋楽の形式を取り入れて日本で作曲された音楽をもいう。

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百科事典マイペディアの解説

日本音楽【にほんおんがく】

狭義には日本で行われてきた日本民族固有の音楽。雅楽声明(しょうみょう),琵琶楽(びわがく),能楽,箏曲(そうきょく),尺八楽,三味線楽,民謡などがある。日本には古代から外国の音楽が伝来し,それを常に日本的に消化・改良したり,その影響下に日本特有の種目を漸次成立させ,現在に至るまで併存している点,また,文芸・舞踊・演劇などと緊密な関連をもって存在している場合が多い点がその特徴といえる。
→関連項目邦楽

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世界大百科事典 第2版の解説

にほんおんがく【日本音楽】

日本人が作曲し演奏した音楽のすべてを〈日本音楽〉といえるが,しかし,実際には,もっと限定した意味で〈日本音楽〉の語は用いられる。広義には,日本人が作曲した洋楽器で演奏する西洋音楽系の音楽(いわゆる〈洋楽〉)も含むが,これを除いた日本の伝統音楽のみを指すほうが一般的である。この意味で,〈日本音楽〉と〈日本の音楽〉を区別することもある。つまり,洋楽系の日本人の音楽は,〈日本の音楽〉というが,〈日本音楽〉とはいわないという考え方である。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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大辞林 第三版の解説

にほんおんがく【日本音楽】

日本の伝統音楽。一般的には雅楽や能楽などを含めた広義の邦楽全体をさすが、洋楽の手法を取り入れ日本で作曲された音楽もいう。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日本音楽
にほんおんがく

定義

日本音楽なる語は場合により広狭さまざまな意味で用いられるから、それを単に「日本の音楽」といいかえるだけではすまされない。
 日本音楽はまず第一に「日本文化の一環としての音楽」と理解されるべきであるが、それでもなお解釈に幅がある。もっとも広義には今日の日本の西洋音楽をも含めていうこともある。しかし、もっとも多用されるのは最狭義で、西洋音楽を除き、近代の西洋音楽輸入開始以前からの伝統をもつ、ないしはその伝統に根ざした音楽をさしていう。西洋音楽が除外されるのは、それがやはり西洋文化の所産であり、規範が依然として西洋にあるからである。
 ここでは、より多用される最狭義を採用する。その観点からすると、ある音楽様式が日本音楽であるためには次の3条件が必要である。〔1〕その様式が相当に長期間にわたって日本で行われてきたこと、〔2〕その間になんらかの意味で独自の発展がみられること、〔3〕日本的感性でとらえて日本独自のものと感じられること。以下この項目ではこの3条件を満たす日本音楽を扱い、なかでも古典音楽を中心にして解説する。
 なお、近代以降には、日本と西洋の要素を融合したさまざまな音楽が現れてきた。それらも日本独特の音楽ではあるが、様相はなお流動的なので、まだ狭義の日本音楽に含めにくい。本項目ではそれらのうち近現代邦楽についてのみ言及する。また、沖縄を中心とする南西諸島の音楽および北方少数民族の音楽も、狭義の日本音楽とは別と考えて、ここでは扱わない。[上参郷祐康]

類義語

日本音楽の類義語には邦楽、日本伝統音楽、日本古典音楽などがある。
 日常もっとも多用される邦楽は、広義では日本音楽に等しく、狭義では雅楽(ががく)、声明(しょうみょう)、能などおよび民俗音楽を除外して、近世成立の遊芸的性格の音楽のみをさす。公的な場面では広義の用例が多いが、日常的には狭義が多い。狭義を強調する場合には近世邦楽という。
 日本伝統音楽(略して伝統音楽)も広義では日本音楽と同義であるが、その硬い語感を避けて単に日本音楽ということが多い。狭義では明治以降の新作の類を除外する場合もある。
 日本古典音楽の意味はさらに狭く、狭義の日本伝統音楽から民俗音楽を除いたものをさす。[上参郷祐康]

種類のあり方

日本音楽には数多くの種類があるが、その各種類がいわばそれぞれ別々に独立した形で存在する点に特徴がある。というのは、音階、旋律法、リズム、楽式、発声、楽器、楽譜、演奏形式、演奏の場、携わる人々(作曲者、演奏者、鑑賞者)等々の諸点で各種類の間に共通点が少なく、むしろ各種類の独自性が目だつことである。西洋音楽にもさまざまな種類があるが、上記の諸点では各種類の間に共通性が強く、全体が音楽として一体視されている。それとは対照的に日本音楽の種類は各個別々に存在する傾向が強く、音楽としての一体感は希薄である。実際、音楽の名で全体を総括する意識が生じたのは明治以後、西洋音楽輸入開始以来のことである。比喩(ひゆ)的にいうと、西洋音楽は同一民族同一言語の国家、対して日本音楽は多民族多言語国家、しかもそれぞれ独立性の強い多数の共和国よりなる連邦の観がある。したがって日本音楽全体の把握のために、各種類の存在の認識がまず肝要である。
 日本音楽全体は、様式未確定の近現代邦楽を別扱いとすれば、まず大きく古典音楽と民俗音楽の2種に分けることができる。[上参郷祐康]

古典音楽の種類

古典音楽の全体的特徴としては、専門家による規範的な伝承、師弟関係の重視、都市中心的傾向で広域に普及、鑑賞芸ないし遊芸的性格、等々があげられ、それらの点で民俗音楽と対照的である。
 古典音楽は多くの種目、流派に分かれる。種目とは主として様式の差異による種別で、多くは発生の歴史的事情および主たる使用楽器の差異とも関連している。流派は流(流儀とも)と派をあわせた称で、流と派の区別は微妙だが、いちおうの定義として、流は種目内の芸風の差異、派はその下位分類で流内での伝承系統の差異、としておく。家元制度は通常この流または派を単位として成立している。
 流の発生時の芸風の差異が増大してやがて様式の差異に近くなったり、派による伝承系統の違いから芸風の差異を生じたりする例もあるので、種目・流・派という分類上の3段階の境界はかならずしも明確ではない。したがって種目と流派による分類は厳密な基準による科学的分類とはいえないが、日常よく慣用されて親しみやすく、種類間の親疎関係などもわかりやすいので、古典音楽全体の把握には便利である。
 すでに伝承の絶えた種目・流派が音楽史上に多数あったことはいうまでもない。[上参郷祐康]

古典音楽の歴史

日本音楽史を通観すると、5~8世紀と19世紀末葉~20世紀の2回にわたって外国音楽の国家的規模の摂取(大陸音楽と西洋音楽)がみられ、その間に挟まれた約10世紀においては、大陸音楽の日本化と日本独自の民族音楽の興隆発展がみられる。この観点から日本古典音楽の歴史を6期に時代区分して以下に略述する。
 一般に日本音楽史では、新しい種目・流派は古いものの支流として派生し、新が旧を駆逐することなく両者共存し続けるのが通例であり、その点で新様式が旧様式にとってかわる西洋音楽史とは対照的であり、西洋音楽史を革命的変遷とよぶとすれば、日本音楽史は細胞分裂的変遷とよぶことができる。
 以下の記述はいちおう時代別であるが、わかりやすくするために、種目・流派の成立のところでその後の変遷まで述べる場合もある。[上参郷祐康]
第1期
原始民族音楽時代(?~4世紀) 大陸音楽伝来以前の時期。資料が乏しくて実態は不詳だが、記紀、風土記(ふどき)、『万葉集』などの文献や埴輪(はにわ)などによりある程度は知りうる。
 この期の音楽は歌謡(声楽)中心で、祭祀(さいし)、農耕儀礼、民俗行事(歌垣(うたがき)など)などと結び付いたものが多い。後世の雅楽に含められる国風歌舞の各曲の原形もこの時期に発生した。楽器ではコト、フエ、ツヅミなどの存在が知られるが、それら和語の楽器名称は本来はそれぞれ弦楽器、管楽器、打楽器の総称なので個々の実態はよくわからない。五弦の板状のコト(和琴(わごん)の原形)の存在が埴輪などにより確認される。[上参郷祐康]
第2期
大陸音楽輸入時代(5~8世紀) 大和(やまと)、飛鳥(あすか)、奈良の各時代にあたる。大陸の先進国から各種各様の音楽が輸入された。
 5世紀中ごろからまず朝鮮半島の音楽の伝来が始まり、7世紀中葉までに新羅楽(しらぎがく)、百済(くだら)楽、高麗(こま)楽(総称して三韓(さんかん)楽)、伎楽(ぎがく)が伝来した。遣唐使派遣により中国文化直輸入が始まり、唐楽、散(さん)楽、踏歌(とうか)など唐の楽舞も7世紀末までに伝来し、8世紀には度羅(とら)楽(起源不詳)、林邑(りんゆう)楽(インド起源)、渤海(ぼっかい)楽が伝来する。これら大陸音楽は先進国文化の摂取の一環として国家的要請により積極的に輸入された。701年(大宝1)の大宝令(たいほうりょう)により雅楽寮(音楽所管の役所)が設置され、宮廷専属の楽人が置かれて、和楽と各種の外来楽を含む宮廷の音楽制度が整えられ、また東大寺などの諸大寺にも法会(ほうえ)の奏楽のための楽人が置かれた。仏教儀式の声楽である声明(しょうみょう)もこの期に伝来し、南都の各寺院で行われた。752年(天平勝宝4)の東大寺大仏開眼供養会は諸大寺の僧侶(そうりょ)数百人による大法要で、声明とともに供養の楽舞として各種の外来楽舞が雅楽寮や諸寺の楽人各数百人によって演奏された。
 このほかに盲僧琵琶(もうそうびわ)もこの期に伝来したと言い伝えられる。これは、僧形(そうぎょう)の盲人が琵琶の弾き語りで経文を読唱する仏教音楽の一種で、鎌倉時代ごろまでは本州でも行われたようだが、のちには九州地方に限定され、いずれも天台宗の一派という薩摩(さつま)盲僧琵琶と筑前(ちくぜん)盲僧琵琶を二大系統(ほかに肥後琵琶などもある)として、今日も行われている。[上参郷祐康]
第3期
大陸音楽消化時代(9~12世紀) 平安時代全体(古代後期)にあたる。遣唐使廃止(894)で大陸文化の輸入が止まり、前期に輸入された大陸文化の国風化が進み、各種の外来楽が種々の形で再編成され日本化された。この時期で重要なのは雅楽と声明である。
 雅楽ではまず外来楽曲の楽器編成、音組織などが整理され規模が縮小された。その結果、外来楽の各母国による細かい区別が失われて左方唐楽(前代の唐楽に林邑楽をも含める)と右方高麗楽(三韓楽に渤海楽をも含める)の二大区分になり、その様式による日本人の新作曲も現れて、外来楽舞は様式、曲目両面でまったく日本独自のものになった。伝統的な和楽(国風歌舞)も外来楽の影響下に再編成され、外来楽器伴奏の2種類の声楽様式(催馬楽(さいばら)と朗詠(ろうえい))も発生した。これら各曲種の総称が雅楽であり、その大成は10世紀末ごろである。
 平安時代には、雅楽は宮廷や寺社の儀式・行事の音楽として、また貴族の教養娯楽として盛行した。宮廷・貴族が力を失った次期以降には衰えるが、宮廷や大社寺に属した楽家の世襲で細々とながら伝承は保持され、江戸時代には幕府の保護で小康を保ち、明治維新でふたたび宮廷音楽として復興された。平曲(へいきょく)、箏曲(そうきょく)など雅楽を源流として発生した種目もあり、雅楽が後の各種目に与えた影響は大きい。
 平安末期には流行歌謡として今様(いまよう)が盛行したが、そのなかには越天楽(えてんらく)今様など雅楽器楽曲の旋律に歌詞をあてたものもある。今様の歌詞集として後白河(ごしらかわ)法皇撰(せん)『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』が名高い。
 声明では平安初期に新たに導入された天台宗と真言(しんごん)宗が以後の声明の二大系統となり、やはりこの時期に日本化が始まった。中国伝来の梵語(ぼんご)・漢語の声明(梵讃(ぼんさん)・漢讃など)もそのまま伝承されたが、それに加えて、日本人にも理解される日本語の声明の各曲種(和讃、講式、論義、祭文(さいもん)など)が発生する。浄土宗、浄土真宗、臨済(りんざい)宗、曹洞(そうとう)宗、日蓮(にちれん)宗、時(じ)宗、黄檗(おうばく)宗などその後に発生・伝来した諸宗派も、天台、真言の声明を摂取しつつ工夫(くふう)を加え、それぞれ独自の声明をもつに至り、声明は多様化して日本独自の仏教声楽になっていった。
 上記の各曲種は各宗派で今日も演唱されている。ただし伝承は流動的で、中世以後もさまざまな変化があり、近代以後でも意識的改訂や無意識的変化が加えられた例もある。中世以後の他種目への声明の影響も大きい。雅楽が日本音楽の器楽面での源流であるのに対して、声明は声楽面の源流といえる。[上参郷祐康]
第4期
民族音楽興隆時代(13~16世紀) 鎌倉、室町、安土(あづち)桃山の各時代、つまり中世にあたる。武家政治の時代になって貴族文化が衰退し、武家や庶民の文化、地方の文化が台頭する。この期に成立した種目には、平曲、早歌(そうか)、曲舞(くせまい)、田楽(でんがく)、猿楽(さるがく)(能)、浄瑠璃(じょうるり)、筑紫箏(つくしごと)、一節切尺八(ひとよぎりしゃくはち)、室町小歌(こうた)などがある。日本語に基づく民族的な声楽の種目が多く、とくに語物(かたりもの)が多い。この期の末には三弦が伝来した。
 平曲は琵琶の弾き語りの音楽で、その歌詞がつまり『平家物語』である。盲僧琵琶に基づき雅楽と声明の影響を加えて13世紀初めに芽生え、14世紀末に確立した。14世紀に琵琶法師の職能団体「当道(とうどう)」が成立して室町幕府の公認を得て以来、平曲は当道の盲人音楽家の専門芸として独占的に伝承される。江戸時代にも当道は徳川幕府に認められて存続したが、平曲にかわって地歌(じうた)、箏曲が盲人音楽家の実際上の専門芸となり、名目的専門芸の平曲の伝承はしだいに弱まり、今日ではごく少数の人々が伝承するのみである。
 早歌は無伴奏の語物で、13世紀末ころに明空という僧により大成された。公家(くげ)、武家、僧侶など上流階級に愛好され、14世紀にかけて隆盛したが、15世紀末ごろから衰退した。早歌の語りのリズム上の特徴が、曲舞を経て、能の謡(うたい)に影響している。
 曲舞は語り舞(立って動き回りながら語る形式)の一種で、鎌倉時代におこり、南北朝時代まで流行した。その語り口は猿楽の能の謡に摂取されている。その一種である幸若舞(こうわかまい)は武将たちに愛好され、江戸時代には能楽とともに幕府の式楽となったが、明治維新で滅び、いまはわずかに福岡県の郷土芸能として残る。
 田楽(でんがく)は、そもそもは豊作祈願の農耕儀礼の歌舞で、元来は農民が演じたものだが、平安時代にはそれを職業とする田楽法師が現れ、散楽の曲芸的要素を取り込んで、しだいに鑑賞芸能になった。鎌倉末期から南北朝時代にかけてはこれに劇的要素を加えた田楽能が流行する。田楽は猿楽能の大成にも影響を与えたが、室町時代以後は猿楽に圧されて衰退し、郷土芸能化したものが残った。一方、都市民衆も農民田楽を模倣して大規模で華美な行列や踊り(風流(ふりゅう))を行うようになり、これも盆踊りなど近世以後の郷土芸能につながる。
 猿楽は散楽の劇的な面を源流としたもので、サルガクはサンガクの転化である。平安末期から鎌倉末期までは滑稽(こっけい)な物真似(ものまね)(写実的演技)中心の芸態で、これは後の狂言につながる。一方、鎌倉時代には法会での咒師(しゅし)の役目(声明演唱と所作)を猿楽の徒が代行することが始まり、これが猿楽の演目の一部(後の『翁(おきな)』につながる)となる。やがて演技より歌舞を重視する猿楽能が発生し、能と狂言の二種目併演形式が始まり、猿楽の座が各地に生まれた。南北朝時代には近江(おうみ)猿楽と大和(やまと)猿楽が隆盛であったが、室町初期の大和猿楽の結崎(ゆうざき)(観世(かんぜ))の座に観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子が現れ、田楽・曲舞・近江猿楽から歌舞的要素を大幅に摂取して芸風を大改革し、今日まで伝わる能の様式を大成した。
 以来、大和猿楽は猿楽の代表となり、武家の愛好を受けて他の芸能を圧して流行し、江戸時代には幕府の式楽となった。以後、演目は固定化したが、芸態はますます洗練の度を加え、他種の音楽や芸能(郷土芸能をも含めて)にも大きな影響を及ぼした。明治以後は猿楽の称にかえて能(能楽)とよばれている。
 浄瑠璃は最初は無伴奏の語物音楽として15世紀末ころに発生した。三味線楽としての多様な展開については次期の条で述べる。
 筑紫箏(つくしごと)は箏曲(箏の弾き歌いを中心とする音楽)の始まりで、越天楽謡物(うたいもの)など雅楽系統の歌謡および中国(明(みん))の七弦琴を源流として、16世紀末に北九州で僧賢順により大成された。次期に俗箏が派生した以後は衰え、いまはごく少数が伝承するのみである。
 一節切尺八は現行の尺八(普化(ふけ)尺八)の先駆的存在で、起源は不明だが15世紀ころから僧侶、隠遁(いんとん)者などの間で行われ、16世紀末ごろからは流派も発生して一般人にも普及したが、18世紀からは急速に衰えて滅びた。
 ほかに、16世紀から17世紀にかけては小歌――後の小唄(こうた)(江戸小唄)と区別して室町小歌という――が流行した。歌詞集として『閑吟(かんぎん)集』『隆達(りゅうたつ)小歌集』などが伝わる。
 三弦の伝来と三味線の誕生は日本音楽史上の重要事件である。三弦は永禄(えいろく)年間(1558~70)に琉球(りゅうきゅう)から堺(さかい)の港に到来し、琵琶の影響のもとに改造されて日本本土独自の三味線となった。三味線楽は次期に大幅に多様化し、三味線は近世邦楽の代表的楽器となる。[上参郷祐康]
第5期
民族音楽大成時代(17~19世紀中葉) 日本音楽史の近世。江戸時代全体と一致する。中世から近世への推移で重要なのは音階の変化である。中世までは律音階(レミソラシの音程関係。半音なき五音音階)が主流だったが、近世以後はその変化形の都節(みやこぶし)音階(ミファラシドの音程関係。2か所に半音。陰音階、陰旋法とも)が圧倒的優勢になり、各種の近世邦楽に共通する代表的音階となる。
(1)三味線楽 三味線楽とは三味線伴奏による声楽の各種様式の総称で、地歌(じうた)(弾き歌い)以外の種目では声楽(唄または語り)と三味線は分担される。多くの種目・流派が現れたが、歌物と語物の2系統に分けられる。前者には地歌、長唄(ながうた)、下座(げざ)音楽、荻江(おぎえ)節、端唄(はうた)、うた沢、小唄が属し、後者には浄瑠璃が属する。
(イ)地歌 発生初期の三味線は様式不定の、はやり唄(うた)などの伴奏に用いられたが、16世紀末に現れた新様式の三味線組歌を最初の曲種として始まり、当道の盲人音楽家の伝承芸となったのが地歌である。17世紀中葉の京都の柳川検校(やながわけんぎょう)から柳川流、18世紀初葉の大坂の野川検校から野川流が始まる。地歌は生田(いくた)流箏曲と結合して三絃と箏の合奏音楽となり、一般素人(しろうと)も演奏を楽しむ家庭音楽として発展する。
(ロ)長唄 上方(かみがた)長歌(地歌の一曲種)に対して江戸長唄ともいう。初期の歌舞伎(かぶき)踊りの唄や上方長歌などを源流として18世紀初葉に江戸で成立し、さまざまな他種目の要素をも摂取しつつ、にぎやかな歌舞伎舞踊の音楽(唄、三味線に囃子(はやし)を伴う)として多彩な発展を遂げ、一般人の稽古事(けいこごと)としても広く普及した。
(ハ)下座音楽 歌舞伎科白劇の伴奏音楽で、長唄の唄・三味線・囃子が演奏し、通常の囃子のほかに多種類の打楽器を用いる。起源は古く、初期の歌舞伎踊りに能の囃子や鉦(かね)などを用いたところに始まるが、様式的確立は18世紀中葉である。三味線を用いない場面も多く、音楽だけの独立演奏は行われない特殊な種目だが、便宜上ここで扱った。
(ニ)荻江節 18世紀中葉に長唄の唄方だった荻江露友(ろゆう)が創始した。歌舞伎を離れて唄と三味線のみの座敷芸となった。
(ホ)端唄・(ヘ)うた沢・(ト)小唄 これらは短編歌曲の種目である。室町小歌ののち、江戸時代のはやり唄は三味線伴奏になり、端唄と総称される。幕末19世紀の江戸では端唄が大流行し、そこからうた沢(歌沢、哥沢)と小唄(江戸小唄)が成立した。これらは明治時代に宴席の音楽として隆盛し、これにつれて端唄も種目とみなされるに至った。
(チ)浄瑠璃 元来無伴奏だった浄瑠璃は、17世紀初頭のころに三味線伴奏となり、人形劇、歌舞伎と結び付いて多様化する。
 17世紀初葉・中葉には上方にも江戸にも多数の太夫(たゆう)(浄瑠璃の声楽家)が輩出してそれぞれの芸風で語り、各太夫の名をとって何々節とよばれたが、芸風の伝承は続かなかった。この時期の浄瑠璃を総称して古浄瑠璃という。
 芸風と流派名称の継承は、17世紀末葉に大坂の竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が創流した人形浄瑠璃義太夫節に始まる。義太夫節は今日も文楽(ぶんらく)の浄瑠璃また歌舞伎のチョボとして用いられ、素人の趣味としても盛行を続けている。
 18世紀初頭には大坂の義太夫節、京都の一中(いっちゅう)節、江戸の半太夫(はんだゆう)節が各都市の代表的浄瑠璃であった。京都の都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)の一中節は当初は歌舞伎にも用いられたが、後の代には江戸に移って座敷浄瑠璃となった。
 江戸半太夫の半太夫節はやがて弟子の十寸見河東(ますみかとう)の河東節に席を譲る。河東節は元来は歌舞伎の和事(わごと)の浄瑠璃だが、のちには座敷浄瑠璃中心(例外的に歌舞伎にも)になる。
 同じころ歌舞伎の荒事(あらごと)の浄瑠璃として大薩摩主膳太夫(おおざつましゅぜんだゆう)の大薩摩節があったが、のちには衰退して長唄に吸収された。
 都太夫一中の門弟の宮古路豊後(みやこじぶんご)は、分派独立して京都で豊後節を創流し、17世紀中葉に江戸に進出し、心中物を得意として大流行したが、風紀上の理由で厳しい弾圧を受けて1代で絶えた。しかし、その影響は甚大で、多くの浄瑠璃流派がその門流から派生した。
 上方での分派には薗八(そのはち)節(宮薗(みやぞの)節)と繁太夫(しげたゆう)節がある。前者は江戸に移って座敷浄瑠璃化して細々ながらいまも存続し、後者はやがて衰滅したが、一部は地歌に摂取された。
 弾圧以後の江戸の門流がおこした分派には新内(しんない)節、常磐津(ときわず)節、富本(とみもと)節、清元(きよもと)節の四流がある。富士松薩摩(ふじまつさつま)の新内節(流名は後の鶴賀(つるが)新内による)は劇場を離れて座敷浄瑠璃となり、常磐津文字太夫(もじたゆう)の常磐津節は歌舞伎出演を続けた。続いて常磐津節から富本豊前(ぶぜん)の富本節が分派し、のち19世紀初葉には富本節から清元延寿太夫(えんじゅだゆう)の清元節が独立する。富本節は清元節に押されて衰えたが、常磐津節と清元節は歌舞伎舞踊劇の浄瑠璃としていまも盛行している。
(2)箏曲 17世紀中葉の京都で八橋(やつはし)検校が筑紫箏の律音階の調弦を都節音階に改め、八橋流が成立する。以後の箏曲は当道の盲人音楽家の専門伝承となり、筑紫箏に対して俗箏(ぞくそう)(俗は一般普及の意味)とよばれたが、今日通常は単に箏曲と称する。17世紀末に生田(いくた)検校が八橋流から分派した生田流は、同じく当道の専門芸たる地歌と結合して箏と三弦の合奏を盛んにし、しだいに器楽的に発展して隆盛した。18世紀末葉に江戸の生田流の分派として山田検校がおこしたのが山田流で、箏を中心に独自の三味線(地歌とは異なる)で合奏し、浄瑠璃の味を摂取した語物風で声楽本位の新芸風を開拓して江戸を中心に普及した。以来、おおむね生田流は西日本、山田流は東日本と勢力を分けたが、現今では地域差は減少しつつある。
(3)胡弓(こきゅう)楽 胡弓は門付(かどづけ)芸や郷土芸能などにもあるが、専門芸としては地歌・箏曲の人々に伝承され、上方に生田流箏曲と結ぶ腕先(うでさき)流、江戸に山田流箏曲と結ぶ藤植(ふじうえ)流が生じた。
(4)尺八楽 17世紀後半から興隆した現在の尺八は、普化(ふけ)宗(虚無僧(こむそう)集団)の具だったので普化尺八とよぶ。普化宗は一般人の遊芸的吹奏や他楽器合奏(外曲(がいきょく))を禁止したが、実際にはしだいに一般にも普及し、18世紀には流派が現れ始める。明暗(みょうあん)諸派とは普化宗伝来の曲のみを吹奏する諸流派に対する便宜的な総称である。琴古(きんこ)流は18世紀中葉の江戸の虚無僧黒沢琴古に始まり、明治以後は外曲を盛んに奏して広く普及した。幕末の上方には宗悦(そうえつ)流など諸流があったが衰退し、その流れから明治中期に大阪で中尾都山(とざん)が都山流をおこし、急速に普及して琴古流と並ぶ大流派となる。のち大正期に宗悦流系統の竹保(ちくほ)流と、都山流から分派した上田流が、いずれも大阪で発生した。
(5)琴楽 単純な構造の一絃琴と二絃琴は、江戸時代後期に簡素古雅を尊ぶ復古的風潮からおこって一部に広まったが、いまは奏者は少ない。
(6)琵琶楽 薩摩琵琶は、16世紀末に薩摩盲僧琵琶を世俗化し薩摩藩武士の教養音楽としたもので、江戸時代には薩摩の地方音楽だったが、明治以後に全国普及した。やがて永田錦心(きんしん)の錦心流が分派独立してからは旧系統を正派とよぶ。昭和に至り錦心流から錦(にしき)琵琶が分派した。筑前琵琶は筑前盲僧琵琶の世俗化で、薩摩琵琶の普及に刺激されておこり、やはり明治以後に全国に普及した。[上参郷祐康]
第6期
西洋音楽輸入時代(19世紀末葉以降) 明治維新から現代まで、一般にいう近代と現代にあたる。明治維新による政治・社会制度の改革と欧米文化の輸入により、日本音楽の世界にもさまざまな変化が引き起こされた。
 制度の改変で雅楽は皇室の式楽として復興されたが、武家の式楽だった能楽、当道と普化宗の独占を認められていた箏曲・地歌界と尺八界は、旧制度の保護を失って大打撃を受ける。それらの種目では一時は専門家の廃業・転業が相次いだが、やがて各種目それぞれに新方向をみいだし、一般愛好者に普及するようになる。
 明治期の箏曲界では新時代賛美の風潮に即した新曲(明治新曲)が多数現れ、尺八界では三曲合奏が盛んになり、器楽的傾向がしだいに強まってその後の近現代邦楽につながる。
 三味線楽のうち興行(歌舞伎、人形劇)と結び付いていた長唄、義太夫節、常磐津節、清元節では、制度改変の直接影響は受けずに盛行を続けるが、概して新時代に適合すべく上品化を目ざし、江戸時代的な卑俗な趣味を脱する傾向が強くなる。また、明治中期の長唄には、歌舞伎を離れて演奏会活動を主とする派が現れ、この活動は長唄の音楽としての自立を大いに促して大正期以後の近現代邦楽につながる。
 興行以外の三味線楽では、新内節に新作曲が続々と現れること、小唄、端唄、うた沢、俗曲などの短編歌曲類が宴席の音楽として興隆したことが目だつが、その他の種目・流派には格別の動きはなく、いわば保存状態で伝承が続く。そのなかでさまざまな種目・流派の味わいを融合した新しい三味線楽(非劇場音楽)として明治中期に東明(とうめい)流が発生し、その影響下に昭和初期に大和楽(やまとがく)が発生した。
 新制度・新風潮と並んで西洋音楽の輸入の影響はもちろん大きい。とくに学校の音楽教育が西洋音楽を基礎として今日まで続いた結果、日本の音楽界はしだいに西洋音楽偏重に傾き、伝統音楽はいわば陰の存在に押しやられた。しかし日本音楽に携わる人々は、それぞれの立場で伝承を守り続け、かつ時代に適合する道を探る努力をいまも続けている。後述する近現代邦楽はそうした努力のもっとも顕著な一面である。[上参郷祐康]

民俗音楽

郷土芸能(民俗芸能)の音楽と民謡(童唄(わらべうた)を含む)がここに含まれる。
 民俗音楽の全体的特徴としては、地域的に限定される、地域共同体における生活・習俗・行事などとの結び付きが強い、作曲者が問題にされない、専門家が存在しない、規範性が希薄で伝承が流動的、歴史的には記述しにくい、等々の諸点があげられる。
 郷土芸能は全国各地に多種多様なものがあるが、ほとんどが単なる娯楽ではなく、神事、仏事、地域共同体の行事(農耕儀礼など)の一環として行われる。雅楽(神楽(かぐら)、舞楽)、田楽、能楽などと同一源流をもつものも多く、また、歌舞伎や人形劇の原形的存在や地方的変形もあって、古典音楽との比較の意味で興味深い。
 郷土芸能に関しては本田安次(やすじ)(1906―2001)の五分類――神楽、田楽、風流、祝福芸、外来系・延年系に五大分し、さらに細分する――が広く通行しているが、音楽面からの分類は確立されていない。
 民謡も各地に多種多様なものがある。起源は新旧さまざまで、各時代の古典音楽との交流や地域間の交流・伝播(でんぱ)もみられ、近現代の新作もある。現代では民謡専門の職業歌手や、素人(しろうと)愛好者を教える民謡教室も出現し、地域を超えて愛唱される曲も多く、民謡が古典音楽の1種目に近い存在になりつつある。
 分類としては、場面と歌唱者に基づく柳田国男(やなぎたくにお)の十分類――田歌(たうた)、庭(にわ)歌、山(やま)歌、海(うみ)歌、業(わざ)歌、道(みち)歌、祝(いわい)歌、祭(まつり)歌、遊(あそび)歌、童(わらべ)歌――がよく知られるが、音楽様式の面では吉川英史(きっかわえいし)・小泉文夫の二分類――八木(やぎ)節様式(拍節的リズム。メリスマが少ない)と追分(おいわけ)様式(非拍節的リズム。メリスマが多い)――がある。[上参郷祐康]

近現代邦楽

日本音楽に西洋音楽的要素を摂取した新傾向の作曲活動は、箏曲、尺八、長唄など近世邦楽の一部の種目からおこった。ここでは、20世紀前半の各種の新作曲活動を近代邦楽、20世紀後半のものを現代邦楽とし、両者あわせた称として近現代邦楽とよぶ。
 近代邦楽では、1910年代(大正時代)にまず箏曲・尺八界から宮城道雄(みやぎみちお)らを中心として「新日本音楽」と称する新作曲活動がおこり、ついで長唄界からは4世杵屋佐吉(きねやさきち)の新様式「三絃(げん)主奏楽」が現れた。
 新作活動は箏曲・尺八界でもっとも盛んで、昭和期に入ると新日本音楽に追随する者が多く現れ、また中能島欣一(なかのしまきんいち)などの新たな傾向の作曲も現れた。三味線音楽畑ではやや遅れるが、長唄界を中心に新作曲を目ざす人々が出る。これら昭和前半期の新作活動では、西洋音楽の摂取の幅も広がり、さらに従来の種目・流派の枠を超えた新しい楽器編成の曲なども現れて急速に多様化したので、もはや単一の運動としてはとらえにくくなり、さまざまなものをまとめて新邦楽、創作邦楽などと総称された。
 第二次世界大戦後、とくに1950年代からは、伝統音楽が再評価されて多くの洋楽系作曲家が邦楽器を用いて作曲するようになり、西洋の現代音楽に倣った「現代邦楽」の名称が一般化した。その作品数はすでに1000曲を超え、洋楽と邦楽の別を超えた日本独自の現代音楽として発展しつつある。[上参郷祐康]
『吉川英史著『日本音楽の歴史』(1965・創元社) ▽吉川英史監修『邦楽百科辞典――雅楽から民謡まで』(1984・音楽之友社) ▽田辺尚雄・岸辺成雄他編『音楽大事典』全6巻(1981~83・平凡社) ▽岸辺成雄著『日本の音楽』(1972・日本放送出版協会) ▽吉川英史著『日本音楽の性格』(1979・音楽之友社) ▽岸辺成雄他監修『邦楽大系』全13巻(1970~73・筑摩書房) ▽吉川英史他監修『日本古典音楽大系』全8巻(1980~82・講談社) ▽吉川英史監修『日本音楽の手引き』(1972・カワイ楽譜) ▽久保田敏子著『点描 日本音楽の世界』(1985・白水社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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