改訂新版 世界大百科事典 「華厳経美術」の意味・わかりやすい解説
華厳経美術 (けごんきょうびじゅつ)
《華厳経》にもとづいて展開された仏教美術をいうが,その遺品は中国,朝鮮,日本を通じて少ない。日本においては,東大寺を中心として,奈良時代と平安末から鎌倉期にかけてのものとが断続的に遺存する点が,華厳経美術を考察する上で注目される。《華厳経》には60巻本の旧訳(くゆく)と,80巻本の新訳とあるが,各本とも最終の会(え)は入法界品であり,善財童子が53人の善知識を訪ねて求法(ぐほう)する仏教説話である。この最終の会以外はすべて盧舎那仏(るしやなぶつ)(毘盧遮那(びるしゃな)仏)による華厳教理の説法である。したがって華厳経美術は,本尊の盧舎那仏と善財童子善知識歴参図を中心に展開することになる。
盧舎那法界人中像
敦煌千仏洞の壁画や敦煌出土の仏画中には,胸の中央に須弥山(しゆみせん),双肩に日月や諸天,下半身に人間,阿修羅,畜生,餓鬼,地獄など三界,六道の諸法を図示した像がある。この系統の像は東トルキスタン南・北道の壁画や出土品にも散見される。なかでも南道のホータンは,古来華厳の重要拠点として知られた于闐(うてん)国であることは注目される。中国における盧舎那仏の遺品は,水野清一によれば6世紀半ば以降のものが多く,北斉河清3年(564)の碑像を最古とするが,蓮上千仏を法衣に無数に彫刻した雲岡第18洞本尊(北魏,460-500)を盧舎那仏とみなす説もある(松本栄一)。また,文献中に見える〈人中像〉に着目し,盧舎那仏は雲岡石窟以前にも存在の可能性があるともされる(吉村怜)。北斉になると〈盧舎那法界人中像〉と明記された像が多くなるところをみると,紀年銘の遺品と相まって,盧舎那仏は北斉ごろより多く造られたようである。唐代になると華厳宗は盛行し,竜門奉先寺に総高17.14mにおよぶ大盧舎那像(現存)が刻され,洛陽白司馬坂には盧舎那仏とみなされる大銅仏も造られた。
華厳変相図
唐代寺院の壁画に華厳変相図が描かれたことは《歴代名画記》等に明らかであるが,それらはすべて失われ,わずかに敦煌千仏洞壁画によって往時の盛況をうかがうことができる。下部に大蓮華座を描き,中央に須弥山を配し,周囲に九会をめぐらす説法図や,華厳変相図の左右両翼に《華厳経》入法界品の善財童子歴参図を配するものもある。
東大寺大仏蓮弁の線刻図
中国唐代の大仏造立の影響をうけて,日本でも東大寺大仏が建立されたが,天平の創建時をしのびうるものは大仏蓮華座に線刻された仏世界図である。大小28の蓮弁には,それぞれに偏袒右肩の釈迦如来を中心に左右20菩薩が取り囲み,下方には須弥山世界が刻されている。この蓮華蔵世界図を有する大仏は《華厳経》による以外に《梵網経》所依とする説もある。これにつづく盧舎那仏は唐招提寺の乾漆像(奈良時代)である。二重光背に800体以上の化仏が存することは,〈重々無尽〉の《華厳経》の特質をよく示している。しかし,これ以後は華厳宗の衰退のためか盧舎那仏はほとんど遺存しない。そして鎌倉期になって《華厳海会善知識曼荼羅図》に新たに盧舎那仏が登場する。
善財童子善知識歴参図
入法界品の善財童子歴参図は,宋代になると《華厳入法界品善財参問経》,仏国禅師《文殊指南図讃》にみられる。前者は前半のみの宋拓,後者は全巻にわたる宋板が遺存し,その図様を知りうる。ほかに元代の《金泥華厳経見返絵》(京都国立博物館)もある。日本において善財童子は平安末になって厳島神社や東大寺の紺紙金泥華厳経の見返絵に断片的に描かれ,善財童子の歴参のみを描いたものには《華厳五十五所絵》(額装本),《華厳五十五所絵巻》(巻子本)がある。このほか《華厳海会善知識曼荼羅図》(東大寺),《華厳海会諸聖衆図》(高山寺)の2幅があり,前者は中央上部に毘盧遮那如来を置き,周囲を54区画に区切りそれぞれに善財童子歴参図を描いた華厳変相図である。後者は上部中央に毘盧遮那五尊を描き,周囲の56区画には《華厳経》に活躍する諸像を描いたもので,両者は高山寺三重塔壁画にも描かれ,両部曼荼羅のごとく対応関係にあったようである。前者の善知識図の中尊は,宝冠を戴き,頭中指をねじった両手を両側に開き,白衣を着す特異な毘盧遮那像で,明恵の《夢の記》にも出現する。これと図像を等しくする華厳仏会図(1022銘)が杭州飛来峰の石窟にある。杭州は古来華厳の盛んな地で高麗寺もあり,義天,義湘をとおして朝鮮とも関係が深い。新羅華厳宗の祖師元暁と義湘の絵伝である《華厳宗祖師絵伝》(《華厳縁起》)は今も明恵の高山寺に伝存する。また飛来峰の毘盧遮那像と同図像の三尊像が高山寺,建長寺にあり,円覚経諸尊を伴った,円覚寺本堂諸尊配置にも通う《円覚経曼荼羅図》(ボストン美術館)が存する。これらは,鎌倉初期に高山寺に流入した華厳伝播の足跡を示唆するものとして興味深い。明恵は唐の李通玄の白光観を体得した感激を綴っているが,その象徴としての白光神像も高山寺に遺存する。また善財童子を伴った華厳宗の観音像も,宋から高麗をへて日本に伝えられている。
→華厳宗
執筆者:石田 尚豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報