萩城跡(読み)はぎじようあと

日本歴史地名大系 「萩城跡」の解説

萩城跡
はぎじようあと

[現在地名]萩市大字堀内

萩市の西北端、指月しづき山の南麓にあって、山名にちなみ指月城ともよばれた。また、初め平山ひらやま城といい、のち指月山城に改めたともいう(毛利家旧記写)

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦に敗れ、防長二国に封じられた毛利輝元は築城の候補地として防府の桑山ほうふのくわのやま山口こうみね、萩の指月山を選び幕府と折衝したが、防府と山口は「当時の御分際にては成らざる山に候、ただ指月然るべき所に候」との一言で北浦の指月山に決定した。

築城前の状況について毛利家旧記写(毛利家文庫旧蔵)に「中古北条上野前司直元城、其後吉見大蔵大輔広頼出城、亦後吉見出羽守正頼隠居地」とあり、「萩古実未定之覚」も同様に記す。しかし北条直元(時直)長門探題であり、当地に拠ったとは考えられない。吉見氏は津和野つわの(現島根県鹿足郡)の城主であり、指月に別邸を設けており、萩築城に当たって毛利氏にこの地を譲ったという。当時、指月山麓付近には吉見氏の邸をはじめ、吉見氏縁故の近藤氏・有倉氏・町人深野氏などの屋敷や指月山善福ぜんぷく寺があり、深野氏は築城の際邸宅地を献じたという(八江萩名所図画)。「長門金匱」には「深野屋敷は御本丸の内なり御居間の御畳御初入国には畳献上仕り候、深野が地のしるしに深野町と名づけ御立てなされ候由」とある。

慶長九年築城に着手したが、当時の指月山はまだ完全な陸続きではなく、途中に多くの湿地帯があって、満潮時には徒歩では渡れなかったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「萩城跡」の解説

はぎじょうあと【萩城跡】


山口県萩市堀内にある城跡別名、指月(しづき)城。城は日本海に突き出した半島状の地域にあり、その先端部の指月山と山麓の平地にわたって築造された。半島の頸部に外堀を掘り、その内に三の丸(堀内地区)を外郭として置き、山裾に向かって二の丸・本丸を築いて、それぞれを堀で遮断している。山頂にも別に本丸・二の丸を構える造りであり、山麓の本丸には5層の天守のほか、藩主の居館や諸役所の建物が建ち並び、上級家臣の屋敷地域であった三の丸の外に城下町が広がっていた。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで西軍総大将として敗れた毛利輝元は、隠居を命じられたが、1604年(慶長9)、幕府の裁可を得て、指月山に連なる干潟を埋め立てて城地を造成、1608年(慶長13)に萩城は落成した。以後、1863年(文久3)に第13代藩主敬親(たかちか)が藩庁を山口に移すまでの間、萩城は長州(萩)藩領内の政治的な中心地となった。1874年(明治7)、廃城令により天守・櫓(やぐら)などの建物は破却され、石垣と堀の一部が残存している。天守は赤瓦葺きで、初層を大きく張り出し、最上階には高欄や花頭窓(かとうまど)があったその姿は、解体前に撮影された古写真で偲ぶことができる。1951年(昭和26)に国の史跡に指定。その後、城下町の一部や家老益田邸の長屋門や土蔵、海上からの荷を入れた汐入門のある二の丸の城壁周辺などが追加指定され、三の丸東半部を重要伝統的建造物群保存地区にするため一部指定解除などがあった。現在、周辺は指月公園となっている。JR山陰本線玉江駅から徒歩約25分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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