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中国古代、青海地方からのちに陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)にまで広がった主としてチベット系の民族。彼らが「羌」とよばれたのは、チベット語のkhyu(あるいはkhyu。群れ、集団の意)の音訳で、自らの集団を――khyuと称したため(たとえば先零(せんれい)羌、焼何羌、焼当羌など)、羌族という総称が成立した。羌族は小部族的結合の集団をなして遊牧生活を営んでいたが、紀元前2世紀には農耕を伴うものも現れた。
前1世紀後半、漢の武帝が匈奴(きょうど)を攻撃して河西(かせい)回廊を奪い、西域(せいいき)交通路の確保のため匈奴と青海の羌・氐(てい)との連携を断つと、羌族の動揺が始まった。漢は護羌校尉(ごきょうこうい)の官を設けて、侵攻と懐柔の両策をもって統御し、後漢(ごかん)時代には青海地方に深く進み、漢人の屯田を積極的に推進し、羌族を陝西、甘粛の諸郡に移住させた。内郡に移住した羌族は漢の小吏や豪族に使役されるなど、民族的差別と侵奪の下に置かれた。その結果、陝西の先零羌の大反乱(107~118)をはじめ、しばしば反乱を起こして漢帝国を揺るがした。漢の対外的膨張政策の結果として内地に含み込まれた匈奴、氐、羌などの少数民族問題は、その後も中国の内部矛盾と絡み合って噴出し、4世紀の五胡(ごこ)十六国時代を現出した。384年、長安を都として後秦(こうしん)を建てた姚萇(ようちょう)は羌族の出身である。
[佐藤智水]
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中国,西北辺に居住したチベット系の遊牧民。五胡の一つ。殷の甲骨文に人身供犠として見え,また周の成立に貢献した呂尚(太公望)も同種族。多くの部族に分かれ酋長が統率した。秦の圧迫が消えると再び東上し,1世紀以降,活動は一段と活発化した。後漢は征伐を行って内地へ移したが,漢人の収奪に苦しんで大規模な反乱をくり返し,後漢衰亡の要因となった。五胡十六国時代の後秦,のちに西夏を建国するタングート(党項)族もこの種族。
執筆者:安田 二郎
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青海を中心に中国北辺境にいたチベット系遊牧民。漢代に西羌(せいきょう)と呼ばれ,五胡十六国時代にこの種族に属す姚氏(ようし)が長安に後秦を建てた。唐代に党項の名で現れ,11世紀に西夏を建てた。
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…4世紀初頭より約1世紀半,中国華北に分立興亡した国家群,あるいはその時代をいう。主権者の多くは五胡すなわち匈奴(きようど)・羯(けつ)(匈奴の一種)・鮮卑(せんぴ)(東胡系)・氐(てい)(チベット系)・羌(きよう)(チベット系)の非漢族で,これまでの漢族による中国統治の流れを大きく変えた時代である。また牧畜・狩猟民族と農耕社会との接触が深まり,それが政権の形成にまで発展した,文化史上特色ある時代である。…
…このうちのヒマラヤ山脈沿いの南縁とその北東に伸びた延長線上の南北に走る渓谷,および青海以南の四川省西縁の土地に住する民族がチベット人である。漢文史料で〈氐(てい)〉とか〈羌(きよう)〉と呼ばれていたものが古い時代のチベット系民族であるともされるが,確かではない。隋の時代にその存在が漢土に伝えられ,唐代に〈吐蕃(とばん)〉と呼ばれたのは,このチベット人が建てた最初の統一王国であった。…
※「羌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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