蒲生村
がもうむら
[現在地名]越谷市蒲生・蒲生東町・蒲生寿町・蒲生旭町・蒲生本町・蒲生西町・蒲生西町一―二丁目・蒲生一―四丁目・蒲生愛宕町・蒲生南町・南町一―三丁目・南越谷一丁目・蒲生茜町・登戸町
登戸村の南に位置し、東は葛西用水を挟んで伊原村、南は綾瀬川や古綾瀬川河道跡に画されて金右衛門新田(現草加市)などに相対する。西は七左衛門村など。日光道中が南北に通る。村は東西に分れ、各々に名主が置かれていた。田園簿に村名がみえ、高は田方一千五五二石余・畑方一五〇石余、幕府領。天和元年(一六八一)村の一部が下総古河藩領となるが、貞享二年(一六八五)に幕府領に復帰(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。
蒲生村
がもうむら
[現在地名]岩美町蒲生
馬場村の南に位置する。但馬往来が本村集落を経て南東の支村塩谷村で東へ折れ但馬国境の蒲生峠へ至り、当地で同往来から分岐した法美往来が南の銀山村を経て十王峠に至る。「和名抄」に載る巨濃郡蒲生郷の遺称地と推定され、中世には当地を中心とする蒲生川上流域一帯に山城石清水八幡宮領の蒲生別宮(のち宇治蒲生庄)があった(「石清水八幡宮末社記」など)。幕末のものと推定される岩井郡絵図(県立図書館蔵)によれば塩谷村の南に支村山神、本村集落から蒲生川を隔てた南西には同じく法正寺(法性寺とも記した)の集落がみえる。「因幡志」にはほかに八楽の名があげられている。塩谷・法正寺では江戸時代中期から銅の採掘が行われた。
蒲生村
かもうむら
[現在地名]池田町蒲生
東は池田村、北には太麻山がそびえ、南は池田湾に面する。古来、入部地区を含めて蒲生村または蒲生入部村と称した。中蒲生および入部の海浜は弥生遺跡で製塩土器の師楽式土器片が多く出土した。西部の小丘からは組合せ箱式石棺二基が出土。「紀氏旧記」は肥土庄(現土庄町)の南限として「蒲生長岫」を記す。
近世池田郷の枝村で、村高は慶長一〇年(一六〇五)の検地時には六三石余(小豆島全図)、延宝七年(一六七九)の検地では一四八石余・反別二八町四反余(「延宝検地帳」池田町役場蔵)、宝暦明細帳では高一六〇石余・反別三一町八反余(田四町一反余・畑二七町七反余)、塩浜二町三反余・塩浜役一〇五俵、家数一五五・人数七八六、牛七七、船数一八(八〇―一〇石積)とある。
蒲生村
かもうむら
[現在地名]山鹿市蒲生
不動岩の南から御宇田台地北側斜面に位置し、東は下内田村(現鹿本郡菊鹿町)、西は久原村と接する。天文一二年(一五四三)一〇月一六日の五条鑑量本地坪付(五条家文書)に「蒲生 一所九町」とあり、年未詳一一月一四日の城政冬・隈部重長連署奉書(同文書)では「高橋十四町・小田八丁・蒲生三町」と池辺二五町との替えが五条氏に認められている。近世は中村手永に属した。宝暦八年(一七五八)の下ケ名寄帳によると田畑屋敷四六町六反九畝余、ほかに一二町九反六畝があり高三五五石八斗余。「国誌」には高三五〇石余、「本村福原村等ノ小村アリ」と記す。
蒲生村
がもうむら
[現在地名]仙台市蒲生・港二丁目・蒲生一―二丁目
貞山堀を荒浜より北東に進むと七北田川(冠川)の河口蒲生湊に至る。集落は湊の左岸側とやや西の両岸に集まる。長さ六間、幅一間半の土橋があった(封内風土記)。鎌倉期は八幡庄のうちで、文永九年(一二七二)頃当地「蒲生郷」を領していた那須資長は、同庄萩薗郷の飯高胤員に訴えられ境相論となっているが、同年四月五日証拠不十分のため胤員の訴は却下された(「関東下知状」秋田藩家蔵文書)。これより先寛喜二年(一二三〇)八月日、八幡庄を領していた陸奥介平景実が同庄の一郷を娘鶴石に譲渡しているが、その四至は東は萩薗、南は海、西は「きののまの」、北は中野で、これは蒲生郷と考えられる(「平景実譲状」伊勢結城文書)。
蒲生村
かもうむら
[現在地名]松代町蒲生
北は小池村と隣接し、南西は池之尻村。古くは池之尻村の北方、蒲生ヶ池周辺に位置したといわれ、松代村との間にある蒲生城山との関係が考えられる。江戸時代初期に伝馬制が布かれ、松之山街道が整備される時期に現在地へ移ったと思われる。正保国絵図では高四七石余。天和三年郷帳では高四八石四斗余、反別田三町余・畑屋敷二町四反余・山林五反余・青苧畑三畝余で漆木九本、家数二〇。安永九年(一七八〇)の新田検地では高四五石六斗余。明治五年(一八七二)の戸数八四。
蒲生村
かもうむら
[現在地名]小倉南区蒲生一―五丁目・蒲生・徳力新町一丁目・日の出町一丁目・北方四丁目、小倉北区南丘一―三丁目・熊谷三丁目・同五丁目
南方村の北、紫川の中流左岸に位置する。「宇佐大鏡」に「国々散在常見名田」の一所として規矩郡内の「蒲生安則」がみえ、国半不輸の時には「六丁九反廿 吉弘五丁四反廿 元重三丁七反四十」より宇佐宮へ加地子を納めたという。郷村高帳では高八三〇石余、うち新田高八一石余。幕末の各村覚書では本高七四八石余、田四八町四反余・畠二六町余、物成四一三石余、竈数一一六・人数四七〇、牛三五・馬三、疫神森(ヤクガミノモリとも)・天神森・八幡森・弁財天森・貴布禰森、大興善寺・専教寺など。
蒲生村
がもうむら
[現在地名]城東区蒲生三―四丁目・中央一―二丁目・今福西一丁目・同三丁目・同五丁目・関目一丁目・同三丁目・同五丁目
野江村の東にあり、鯰江川の北岸、蒲生堤(今福堤)に沿って集落を形成。「集古群類」には「摂津国榎並蒲生薬師寺」と刻した文保元年(一三一七)の鐘銘を載せるが、薬師寺は現存しない。かつて一六軒の地主がいたところから十六軒村と称したともいう(城東区史)。
蒲生村
かもうむら
[現在地名]柳川市蒲生
本薗村の北東にあり、三潴郡に属する。東は同郡野口村・中野村(現大木町)。応永九年(一四〇二)一〇月二三日の直久安堵状(旧記雑録/鹿児島県史料 旧記雑録前編二)によれば、蒲池左衛門次郎の忠節を賞して蒲池郷本名のうち蒲生一三町などが安堵されている。天正一五年(一五八七)立花統虎(のち宗茂)は小野和泉守(鎮幸)を蒲池城勤番に命じ、同年八月一一日「かもう」八町五反を含む一一三町を宛行った(「立花統虎坪付写」小野家文書)。文禄四年(一五九五)の知行方目録には蒲生村とあり、高三三四石余。元和六年(一六二〇)から久留米藩領。本高は三一五石余(元禄国絵図)、「在方諸覚書」では古高五二〇石・役高三八〇石。
蒲生村
がもうむら
[現在地名]只見町蒲生
叶津村の北東に位置し、集落は蒲生岳(八二八メートル)の麓、蒲生川が北西から只見川に流入する段丘上にある。南西の浅草岳(一五八五・五メートル)からの吹下ろしがあり、会津で最も雪の深い所である。大塩組南西隅の村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「賀茂 百七石四斗九升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)には「蒲茂」とみえ同高で、免二ツ七分。「会津風土記」には「蒲生」とある。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高一三二石余。当村は三地区に分れており、化政期の家数は上蒲生六・久保一一・蛭山一〇で、ほかに端村八木沢があり家数一七(新編会津風土記)。
蒲生村
こもうむら
[現在地名]丹波町字蒲生
美女山の西麓を北流する須知川西岸の村。川沿いに水田が広がるが、村の西部は広大な高原をなしている。東は須知川を挟んで上野村に対し、南は須知村、西は曾根村、北は高屋村・坪井村。亀山藩領。
村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳の四一五石余から天保郷帳では四七九石余と約二割増がみられる。旧高旧領取調帳では上蒲生村一三二・一九五石、下蒲生村三四七・六四三石と二村に分けて記されている。
村の西半には蒲生野と称される原野が広がる。貝原益軒は「西北紀行」の印内村の項に「此西に紅新田とて、民家少あり。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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