( [ 一 ]①について ) 上代以来、和歌では早春の景物とする。中古の歌では「わらび(藁火)」と掛けた上で、「萌え」と掛けた「燃え」や「煙」「たく(焼)」などと縁語にしたりする。散文では、採取して食用にするものとして現われる。
埼玉県南部の市。1959年市制。人口7万1502(2010)。市域は荒川左岸の低湿地にあり,面積は5.09km2で全国最小の市である。戦国時代に渋川氏の蕨城があったが,江戸時代には荒川の戸田の渡しをひかえた中山道の宿駅として,また近郊の綿織物の集散地として栄えた。綿織物は文政年間(1818-30)に塚越村を中心に始められ,同村の糸商2代高橋新五郎が発展に尽力,1837年(天保8)に織機102台,43年には生産量8万反余に達した。その子3代新五郎はイギリスからの輸入糸を用いて60年(万延1),双子織(塚越双子)を創始した。明治末から大正初年の最盛期には機業家は4000戸を超えたが,第2次大戦後,昭和30年代ころから若年労働力の不足,需要の減少によって衰微した。戦中・戦後に進出した化学,印刷,鉄鋼,通信機器などの工場は,1970年以降,市外へ移転,跡地へ高層マンションが進出した。現在はJR京浜東北線,国道17号線(中山道)が通じる首都近郊の住宅都市として発展し,人口密度5桁の過密都市である。
執筆者:新井 寿郎
中山道の大宿。地名の初見は室町時代成立の《市場之祭文》。1614年(慶長19)下戸田村元蕨より60戸を移して宿駅が整備され,延享期(1744-48)以降蕨宿を称した。1695年(元禄8)の検地で人馬各50,地子免1万坪。江戸より4里28町,宿内往還約20町。天保期(1830-44)には戸口403軒・2223人,本陣1,脇本陣2,旅籠23,宿高1418石余,問屋3。市日は7月11日,12月26日。江戸時代初頭の曲がりくねった狭い旧中山道は1683年(天和3)に幕命で直線的往還に整備された。宿内を用水堀が囲み,防火機能をも果たした。しばしば大火にあい,特に1725-26年(享保10-11)の大火は蕨宿に大きな打撃を与えた。
執筆者:大村 進
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埼玉県南東部、さいたま市の南東に接する市。1959年(昭和34)市制施行。JR京浜東北線、国道17号が通じる。付近一帯は荒川の沖積低地であるが、集落は古くから自然堤防上に位置し、現在は全市域が市街化し、農地はわずかである。中世蕨城があったが、江戸時代は中山道(なかせんどう)第二の宿場町として栄え、戸田の渡しを控えて、浦和宿や大宮宿より人口が多かった。いまでも11月に「宿場まつり」が盛大に行われている。本陣記念碑に隣接して歴史民俗資料館が1990年(平成2)に開設した。また、江戸末期高橋新五郎によって始められた双子縞(ふたごじま)とよばれる綿織物の生産が盛んになり、昭和初期まで県南綿織物生産地の中心であった。現在は各種工業が盛んで、コンピュータ関連企業の進出がみられる。面積5.11平方キロメートルで全国最小面積の市だが、人口密度は1平方キロメートル当り1万4536人(2020)で、東京特別区をのぞくと全国一の過密都市である。面積5.11平方キロメートル、人口7万4283(2020)。
[中山正民]
『『蕨市の歴史』全2巻(1967・蕨市)』▽『『新修蕨市史』全5巻(1991~1995・蕨市)』
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