藤原仲成(読み)ふじわらのなかなり

改訂新版 世界大百科事典 「藤原仲成」の意味・わかりやすい解説

藤原仲成 (ふじわらのなかなり)
生没年:764-810(天平宝字8-弘仁1)

平安初期の官人。藤原式家の種継の長子で,母は粟田道麻呂の娘という。785年(延暦4)父種継が暗殺されたのち従五位下に叙され,翌年衛門佐となり,出雲守,左中弁,山城守,主馬頭などを歴任し,801年従四位下となる。806年(大同1)兵部大輔となり,左兵衛督,右大弁などを経て809年には従来の参議に代わっておかれていた観察使(北陸道)となり,ついで大蔵卿となった。この間807年10月に無実の罪で伊予親王母子を自殺においこんだ事件が起こったが,これを仲成の陰謀とする理解もあるが定かではない。809年4月に平城天皇は病気のために退位したが,のち健康を回復して重祚を望んだ。この上皇の意をうけて,信任を得ていた妹薬子とともにその企てに参加した。いわゆる薬子の乱であるが,810年9月10日に失敗して任所右兵衛府で禁固され,翌日夜に主謀者として射殺された。
薬子の変
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原仲成」の意味・わかりやすい解説

藤原仲成
ふじわらのなかなり
(774―810)

平安初期の政治家。式家種継(たねつぐ)の長男。妹の薬子(くすこ)が平城(へいぜい)天皇寵愛(ちょうあい)されたことから薬子とともに政治を左右した。しかしその後天皇は譲位し弟の嵯峨(さが)天皇が即位すると両者対立し、ふたたび平城の即位を謀った仲成・薬子らは上皇とともに平城(へいじょう)の古都へ移り、平城への遷都を強行しようとした。ここに至って両者の対立は決定的となって薬子の変となり、仲成は嵯峨(さが)側によって射殺された。

福井俊彦

『北山茂夫著『続万葉の世紀』(1975・東京大学出版会)』

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朝日日本歴史人物事典 「藤原仲成」の解説

藤原仲成

没年:弘仁1.9.11(810.10.12)
生年天平宝字8(764)
平安初期の官人。種継と粟田道麻呂の娘の長男。父が暗殺され,妹薬子が宮廷を追放されるなど,桓武天皇時代は恵まれなかったが,平城天皇の即位後,薬子が再び寵を得たことにより大同4(809)年北陸道観察使,翌年参議となる。薬子と共に長岡京造営中に倒れた父の名誉回復に努め,祟りを恐れた桓武が『続日本紀』から削除した早良親王と種継事件の記事を桓武没後,もと通りに挿入したこともある。薬子の変(810)で逮捕されて右兵衛府に監禁され,翌日射殺。死刑はこれを最後に保元の乱(1156)で復活されるまで途絶える。粗野で狂暴な人物と『日本後紀』は酷評。<参考文献>瀧浪貞子『平安建都』

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原仲成」の意味・わかりやすい解説

藤原仲成
ふじわらのなかなり

[生]宝亀5(774).奈良
[没]弘仁1(810).9.11. 京都
平安時代初期の廷臣。薬子の変の主謀者。種継の子。母は粟田道麻呂の娘。延暦4 (785) 年従五位下。出羽守,左兵衛督,右大弁などを経て,大同4 (809) 年北陸道観察使,翌年参議に任じられた。同年平城天皇が弟の嵯峨天皇に譲位すると,権勢を失うことを恐れた仲成と薬子の兄妹は,上皇の重祚をはかって挙兵を企てたが,同5年未然に発覚し,仲成は右兵衛府に捕えられて射殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原仲成」の解説

藤原仲成 ふじわらの-なかなり

764-810 奈良-平安時代前期の公卿(くぎょう)。
天平宝字(てんぴょうほうじ)8年生まれ。藤原種継の長男。母は粟田道麻呂の娘。平城(へいぜい)天皇の寵遇(ちょうぐう)をうけ,妹薬子(くすこ)とともに権勢をふるう。大同(だいどう)4年従四位下で北陸道観察使,翌年参議。平城上皇の重祚(ちょうそ)をはかり,嵯峨(さが)天皇側に大同5年9月11日射殺された(薬子の変)。47歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原仲成」の解説

藤原仲成
ふじわらのなかなり

764~810.9.11

平安前期の貴族。父は桓武天皇に重用された式家の種継。785年(延暦4)従五位下となり,地方官などを歴任。妹薬子(くすこ)が平城(へいぜい)天皇の寵愛を得て,809年(大同4)従四位下で北陸道観察使(のち参議)右兵衛督となり威を振るい乱行があった。譲位の後,平城上皇が旧都平城京に戻り,嵯峨天皇と対立して薬子の変がおきると,嵯峨方に捕らえられ,射殺された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原仲成」の解説

藤原仲成
ふじわらのなかなり

774〜810
平安初期の公卿。薬子 (くすこ) の変の首謀者
参議。種継 (たねつぐ) の長男。妹の薬子が,平城天皇の寵愛を得たため重用された。平城天皇が退位すると権勢の失墜を恐れ,薬子とともに上皇の重祚 (ちようそ) を企てたが失敗し殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原仲成の言及

【薬子の変】より

…一方この前後から嵯峨天皇も健康がすぐれず,翌810年(弘仁1)の朝賀は廃止され,7月には川原寺,長岡寺での誦経や伊勢大神宮への奉幣も行われた。このような事情のなかで,平城宮で健康を回復した上皇は,東宮時代にその後宮に入り寵愛していた藤原薬子(藤原種継の娘)とその兄藤原仲成らとともに重祚(ちようそ)(退位した天皇が再び即位すること)を企てた。同年9月に,薬子らは上皇の命により平城京への還都を断行し,諸司が二分し人心騒動するという決定的な対立となった。…

※「藤原仲成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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