デジタル大辞泉
「淳和天皇」の意味・読み・例文・類語
じゅんな‐てんのう〔ジユンワテンワウ〕【淳和天皇】
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じゅんな‐てんのうジュンワテンワウ【淳和天皇】
- 第五三代の天皇。桓武(かんむ)天皇の第三皇子。母は藤原百川(ももかわ)の娘旅子。名は大伴(おおとも)。弘仁一四年(八二三)即位。令制の再建につとめ、また漢学に長じた。「経国集」「令義解」などを撰した。天長一〇年(八三三)、仁明天皇に譲位。在位一一年。西院帝ともいう。延暦五~承和七年(七八六‐八四〇)
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淳和天皇
じゅんなてんのう
[生]延暦5 (786). 京都
[没]承和7 (840).5.8. 京都
第53代の天皇(在位 823~833)。諱は大伴。日本根子天高譲彌遠(やまとねこあめたかゆずるいやとお)天皇。桓武天皇の第3皇子,母は藤原百川の娘,贈皇太后旅子。大同5(810)年9月薬子の変の直後の同月13日,嵯峨天皇の皇太弟に立ち,弘仁14(823)年4月即位。天長1(824)年左右検非違使庁を設置し,同 3年上総国,常陸国,上野国の 3ヵ国を親王の任国に定めた。同 4年に『経国集』,同 7年に『新撰格式』,同 8年に『秘府略』,同 10年に『令義解』を撰進させ,同年嵯峨天皇の皇子正良親王(仁明天皇)に譲位。律令制度再建に努め,治水事業にも意を用い,漢学にも長じていた。陵墓は京都市西京区大原野南春日町の大原野西嶺上陵。
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淳和天皇 (じゅんなてんのう)
生没年:786-840(延暦5-承和7)
第53代に数えられる天皇。在位823-833年。桓武天皇と妃藤原旅子との間に生まれ,名を大伴という。異母兄の嵯峨天皇の譲位によって即位した。嵯峨上皇が大内裏に近い冷然院(冷泉院)にいて重きをなし,皇太子には嵯峨上皇の皇子正良親王(のちの仁明天皇)が立ったが,淳和天皇は謙譲・温厚な性格で,兄上皇との間は円満に終始し,その在位の天長年間は政治的にはいたって安定していた。この間の史実は正史《日本後紀》の散逸によって多く伝わらないが,滋野貞主による百科事典《秘府略》,清原夏野らによる養老令の注釈《令義解》などの大著の成立は,淳和朝の文化的成果として特筆すべきであろう。死に当たって薄葬を遺詔したことも知られている。
執筆者:目崎 徳衛
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淳和天皇
じゅんなてんのう
(786―840)
第53代天皇(在位823~833)。桓武(かんむ)天皇第3皇子。母は式家百川(ももかわ)の娘藤原旅子(たびこ)。諱(いみな)は大伴(おおとも)。薬子(くすこ)の変(810)で皇太子高岳(たかおか)親王が廃されたので、嵯峨(さが)天皇の皇太弟となり、天皇の譲位を受け即位。公卿(くぎょう)らに意見を提出させ、地方官に従来より大きな職務権限をもたせ、一方で勘解由使(かげゆし)の再置、巡察使の派遣などによって地方官の監督を強化しようとした。また清原夏野(きよはらのなつの)らの側近を登用して政治を進め、勅旨田や親王任国を置いて皇室財政を強化した。そのほか、令(りょう)の公的注釈書『令義解(りょうのぎげ)』や詩文集『経国集(けいこくしゅう)』を撰(せん)し、譲位後は主として淳和院に住んだ。遺詔により遺骨を砕いて散じたといわれる。承和(じょうわ)7年5月8日没、陵墓は京都大原野西嶺上陵(京都市西京区)。
[福井俊彦]
『藤木邦彦著『日本全史3 古代Ⅱ』(1959・東京大学出版会)』
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淳和天皇
没年:承和7.5.8(840.6.11)
生年:延暦5(786)
平安前期の天皇。桓武天皇と藤原百川の娘松子の子。名は大伴。薬子の変(810)で廃太子された高岳親王(真如)に代わって皇太弟となり,弘仁14(823)年4月,兄嵯峨天皇の譲位により即位。大伴氏は即位の翌日,天皇の名(大伴)を避け伴氏と改めた。『経国集』(827)をはじめ,百科事典『秘府略』(831),『令義解』(833)といった詩文集や法典整備の編纂など文化政策に努めた。天長10(833)年2月,皇太弟時代の離宮南池院(西院とも)を整備した淳和院(京都市右京区西院淳和院町付近)に移って譲位,当初,上皇の称号と待遇を辞退したが,上皇がふたりとなったことから,嵯峨を先(前)太上天皇と呼ぶのに対して「後太上天皇」と称された。詩文を好み,作品は『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』に多数収める。空海の死去に際し高野山に送った弔書(『続日本後紀』所収)は哀切に満ちた文章として著名である。遺言に従って山陵は築かれず,遺骨は砕いて大原野山中に散布された。物集女(向日市)には火葬塚が伝存。
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淳和天皇【じゅんなてんのう】
平安初期の天皇。在位823年−833年。諱(いみな)は大伴。桓武天皇の第3皇子で,母は藤原旅子。810年異母兄の嵯峨天皇の皇太弟となり,823年即位。嵯峨上皇は譲位後も重きをなし,皇太子には同上皇の皇子正良親王(後の仁明天皇)が立った。天皇と上皇との関係は円満で,在位中は政治的に安定,清原夏野ら良吏を登用し,《令義解》を撰述させている。死に当たり薄葬を遺詔したため,京都大原野西山嶺に散骨された。
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淳和天皇 じゅんなてんのう
786-840 平安時代前期,第53代天皇。在位823-833。
延暦(えんりゃく)5年生まれ。桓武(かんむ)天皇の第3皇子。母は藤原旅子(たびこ)。平城(へいぜい)・嵯峨(さが)天皇の異母弟。嵯峨天皇の譲位をうけて即位。良吏をえらび,勘解由使(かげゆし)を復活させるなど,政治を刷新し,令(りょう)の解釈を統一する「令義解(ぎげ)」をつくる。詩文にすぐれ「凌雲集」「経国集」などに多数の作品がある。承和(じょうわ)7年5月8日死去。55歳。墓所は大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)(京都市西京区)。別名は大伴親王,日本根子天高譲弥遠天皇(やまとねこあめたかゆずるいやとおのすめらみこと),西院帝。
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淳和天皇
じゅんなてんのう
786~840.5.8
在位823.4.16~833.2.28
桓武天皇の皇子。名は大伴(おおとも)。母は藤原百川の女旅子。810年(弘仁元)薬子(くすこ)の変で高岳(たかおか)親王(平城(へいぜい)天皇の子)が皇太子を廃されたあとをうけて,嵯峨天皇の皇太弟に立つ。践祚に際し,嵯峨天皇の皇子(仁明(にんみょう)天皇)を皇太子に立て,のちにこれに譲位した。贈皇后高志(こし)内親王(異母妹)・皇后正子内親王(嵯峨の女)との間に恒世(つねよ)・恒貞が生まれ,皇位継承は有望であったが,承和の変(842年)によってその望みは絶たれる。詩文に秀で,漢詩文集「経国集」を撰進させ,また「令義解(りょうのぎげ)」を完成させた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報