和歌に関する理論および理論書のこと。〈歌学〉〈歌学書〉が訓詁注釈をはじめとして学問的傾向の強いものを指すのに対し,文芸的傾向,評論的色彩の強いものを〈歌論〉と呼んでいる。本質論,形式論,様式論,和歌史論,伝統論,文体論,韻律論,用語論,作歌論,批評論まで,内容的にきわめて幅広く,時代的広がりにおいても,《万葉集》の時代から現代まで広い時代に〈歌論〉は書き継がれてきている。とくに近世以前においては,文学論のみならず芸術論一般の根幹として,他ジャンルにも広くその影響を及ぼした点で,〈歌論〉は注意されるのである。〈先づ,この道に至らむと思はむ者は,非道を行ずべからず。ただし,歌道は風月延年の飾りなれば,もっともこれを用ふべし〉(《風姿花伝》),〈本(もと)より歌道は吾が国の陀羅尼(だらに)なり。綺語を論ずる時は,経論をよみ禅定を修行するも妄想なるべし〉(《ささめごと》)とあるように,能楽においても,仏道修行においてさえも,歌道の修得は必要不可欠とされたわけで,その歌道の理論が重視されたのは当然といえば当然であった。
古代から現代まで,〈歌論〉を史的に展望するとき,ふつう,古代,中世,近世,近代,現代の5期に区分している。久松潜一《日本文学評論史》がとる区分である。これによれば,古代は奈良・平安時代をさし,中世は鎌倉・室町時代をさし,近世は安土桃山・江戸時代をさし,近代は明治・大正時代をさす。そして,現代は昭和に入ってから今日までをさす。
まず,古代の〈歌論〉である。〈歌論〉と呼びうるものの最初は何か。歌論書の最古のものは藤原浜成撰《歌経標式(かきようひようしき)》(772成立)である。が,《万葉集》の題詞および左注には,〈歌論〉と呼ぶべきものも少なからず含まれており,〈歌論〉の始発は《万葉集》としていい。〈春日遅々にして,鶬鶊(ひばり)正に啼(な)く。悽惆(せいちよう)の意,歌にあらずは撥(はら)い難し。よりて此の歌を作り,式(も)ちて締緒(ていしよ)を展(の)ぶ〉(巻十九),これは大伴家持の和歌に対する見解であるが,〈悽惆の意(痛み悲しむ心)〉は作歌することによってのみはらいうるとしているのは,和歌の本質論と見てよい。また,〈白雪の降りしく山を越え行かむ君をそもとな息(いき)の緒に思(も)ふ〉(巻十九)という歌の左注に,〈左大臣尾(最後の七拍のこと)を換へて云はく,“いきの緒にする”といへり。然れども猶し喩(さと)して曰はく,前の如く誦せよといへり〉とある。左大臣橘諸兄が結句〈息の緒に思ふ〉を〈息の緒にする〉と換える案を出したが,のちに撤回した,というのである。これは用語論であって,断片的ながら歌論と呼びうるものであろう。《万葉集》中には,こうしたケースが散見する。《万葉集》の歌人たちが中国の詩論をよく読み学んでいたことは,すでにさまざまに指摘されているところである。《万葉集》に見られる〈歌論〉は,中国の詩論の深い影響下にあった。そのことによって,呪術性に代表される古代性を振り切って,和歌が脱皮する契機を形成した点は特に注意されるのである。中国の詩論の影響といえば,《歌経標式》はもっと直接的である。同書は歌病(かへい)論および歌体論から成るが,いずれも中国六朝詩論の模倣とみなされる。ただし,客観的,外形的,体系的に和歌を把握しようとした姿勢と方法において,模倣とはいえ,史的にみれば貴重な視座を含んでいた。以降への影響は,したがって小さくはない。
平安時代に入って,まず《古今和歌集》(905成立)の序文がある。序には,仮名序と真名序の2通りがあって,両者の間には微妙なちがいがあるが,基本的内容はほぼ同じである。本質論,史論,伝統論,状況論,歌人論,撰進の意義,がその骨格をなしている。とくに和歌衰退の現状を分析する状況論と和歌の社会的効用をその一部とみなす本質論をからめて,時代の表現としての和歌をイメージしている点に大きな意義が認められる。和歌は個人の表現でありつつ,同時に時代社会の表現でもあり,伝統継承の営為でもあることが論じられており,この和歌観が以降の和歌史の太い流れとして継承されてゆくのである。単なる私的な詩ではなく,宮廷詩としての和歌--その理論的骨格がここで獲得されたことと,21代,500年にわたる勅撰和歌集の時代が招来されたこととは密接な関係があるとみられる。一方,歌論史のうえからみれば,以降くり返し論じられ,伝統的な論点となってゆく〈心〉と〈言葉(詞)〉の関係に論及し,いわゆる心詞具有の説を展開している点が重要である。
〈歌論〉をさかんにした契機に,歌合があった。歌合の歴史は《古今和歌集》よりさかのぼるが,形式的,文学的に充実してくるのは《天徳四年(960)三月内裏歌合》のころからである。歌合とは,左右に分かれて1首ずつ互いの歌を番(つが)い合わせて勝負を競う遊戯である。勝負の判定を下す審判官が判者で,判者は,勝・負・持(引分)の判定を下し,さらに判詞(判定理由)を付して勝負を理論的,客観的に跡づける責任があった。つまり,批評に,一定の規準が,実践的に厳しく要求されたのである。歌合のこうした要請から,〈歌論〉は隆盛に向かい,精密化されていったのである。まず,10世紀末から11世紀前半に活躍した藤原公任の著作《新撰髄脳(しんせんずいのう)》と《和歌九品(わかくほん)》がある。〈凡そ歌は心深く,姿清げにて,心にをかしきところあるをすぐれたりといふべし〉(《新撰髄脳》),〈詞たへにして余りの心さへあるなり〉(《和歌九品》)と秀歌の条件が記されているとおり,〈心〉と〈言葉〉の調和を重視しつつ,漠然とながら,余情という一つの価値規準への回路を開き,心詞の関係に歴史的方向性を与えたのであった。いまひとつ,この時代の歌論に《忠岑十体(ただみねじつてい)》(《和歌体十種》とも呼ばれる)がある。歌を様式面から10種に分類把握する歌論書である(和歌十体(じつてい))。《俊頼髄脳(としよりずいのう)》は12世紀初頭に成立した歌論書で,源俊頼が関白藤原忠実の娘泰子(高陽院)の作歌参考のために書いた実用向けの歌論である。〈心〉の重視を言いつつ,〈詞をかざり詠むべきなり〉とも言って,〈言葉〉の尊重,言語世界の自立をも示唆している点が斬新であった。
中世の最初を飾るのは,藤原俊成《古来風体抄(こらいふうていしよう)》である。式子内親王の依頼によって執筆したもので,成立は1197年(建久8)である。俊成には《六百番歌合》をはじめ歌合の判詞が多く,それらにも重要な〈歌論〉が見とれるのであるが,まとまったものはこの《古来風体抄》である。〈歌はただよみあげもし,詠じもしたるに,何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし〉とある。〈何となく〉に注目したい。きわめてデリケートな吟詠の声の調子についての論述であるが,究極はこういう主観的位相に評価規準があるとした点に,中世という新時代の〈歌論〉としての面目があった。俊頼の時代にもすでにその萌芽はあったが,中世に入ると歌は宮廷歌的側面を稀薄化させ,個人の詩としての側面を強めていったのだった。〈歌論〉もまたこれと対応して,個人の心の主体的認識力の尊重に向かったのである。俊成の〈歌論〉はその屈折点となったのである。仏教からの影響もあった。その精神性は〈摩訶止観〉から学んだものであることは,俊成自身が言明しているところである。
俊成の子藤原定家は,《近代秀歌》《詠歌大概》《毎月抄》等の歌論を書いて,俊成の歌論を一歩推し進めた。〈詞(ことば)は古きを慕ひ,心は新しきを求め,及ばぬ高き姿をねがひて〉(《近代秀歌》),〈まづ心深く,長(たけ)高く,巧みに,詞の外まで余れるやうにて,姿気高く,詞なべて続け難きがしかもやすらかに聞ゆるやうにて,おもしろく,かすかなる景趣たち添ひて面影ただならず,けしきはさるから心もそぞろかぬ歌にて侍り〉(《毎月抄》)とあるように,高さや深さという内面性をいっそう重んじている点が注目されるのである。
俊成は〈幽玄〉を言い,定家は〈有心(うしん)〉を言った。いずれも美的理念を表す批評語として,中世歌論のキー・ワードとなってゆくが,その意味する内容はかならずしも明確ではなく,また,俊成,定家がその語に託そうとした美的理念からずれたかたちでそれが成長を遂げてゆきもした。《愚秘抄》《三五記(さんごき)》等,いわゆる鵜鷺(うさぎ)系歌論書と呼ばれる定家の名に仮託した偽書にあらわれるそれである。ただ,平安朝時代の美的理念をあらわす批評語であった〈あはれ〉〈たけ高し〉〈をかし〉等と比べると,〈幽玄〉〈有心〉はいちじるしく内面化の傾向を強め,思想性を濃厚にもつ点で中世的理念としての特色をもつのであって,その点を考慮に入れれば,鵜鷺系歌論書に論じられた〈幽玄〉〈有心〉もまた,歌論史の大筋をたどる上で重要な意義をもったのであった。《後鳥羽院御口伝(ごくでん)》,順徳院《八雲御抄(やくもみしよう)》は,俊成,定家の論を踏まえつつ,歌人論,作品論にあらたなる展開を示している点で注目され,鴨長明《無名抄(むみようしよう)》も,〈幽玄〉に言及している。
その後,定家の子の為家の《詠歌一体(えいがいつてい)》(偽書説もある)が平淡美を主唱し,京極為兼の《為兼卿和歌抄》が〈心のままに詞の匂ひゆく〉表現をよしとして,いっそうの心の重視を説いた。《為兼卿和歌抄》は《玉葉和歌集》の新風の理論的背景を知るうえで重要である。その他,阿仏尼の《夜の鶴》,二条為世の《和歌庭訓》等,鎌倉期に書かれた〈歌論〉の数は多いが,文学的に見て意義の認められるものはほとんどない。為家の子の代で,二条家,京極家,冷泉(れいぜい)家と歌の家が三つに分裂し,以降,派閥争いが激化したために,〈歌論〉も本質を理論的に深めるという方向ではなく,派閥意識をあらわにして,他派を攻撃するケースが増えていったからである。たとえば《野守鏡(のもりのかがみ)》は作者未詳の歌論書であるが,二条派の立場に立って為兼を初めとする京極派を攻撃した書であったし,《延慶両卿訴陳状(えんきようりようきようそちんじよう)》と呼ばれる,《玉葉和歌集》の選者をめぐっての二条,京極両家の厳しい対決を伝える応酬もある。南北朝・室町時代では頓阿(とんあ)の《井蛙抄(せいあしよう)》,二条良基・頓阿の《愚問賢注》,良基の《近来風体抄(ふうていしよう)》等の二条派の歌論書,冷泉派の今川了俊の《弁要抄》《落書露顕(らくしよろけん)》などがある。
室町時代の〈歌論〉で重要なのは,《正徹(しようてつ)物語》である。正徹は了俊の弟子で,したがって冷泉派の流れをくむ歌人であったが,〈歌道において定家を難ぜむ輩(やから)は冥加もあるべからず。罰をかうぶるべきことなり〉と《正徹物語》の冒頭で言っているように,定家に帰れを主唱することで情勢論を乗り越えたのであった。特色を示すのは〈幽玄体〉論である。正徹は,定家の言う〈余情妖艶〉と結びつけてこれを理解し,幻想的唯美的世界を〈幽玄〉に見ようとした。この見解は,連歌論や能楽論の中核的な美的理念として受け継がれてゆくのである。《正徹物語》は,このように歌論史上に重要な位置を占めるが,本物の藤原定家をではなく,前述した鵜鷺系歌論書と呼ばれる定家仮託の偽書の影響下にあったことが近年の学界で指摘されることとなった。なお,室町期には連歌が隆盛するが,理論面でも心敬の《ささめごと》,宗祇の《吾妻問答》等,みるべき連歌論を生み出したのであった。
織田信長,豊臣秀吉,徳川家康に重臣として遇せられた細川幽斎は,二条派の歌人で,《詠歌大概抄》ほかの〈歌論〉がある。幽斎が古今伝授の唯一人の維持者であったために,田辺城が石田三成に包囲されたおり,勅命によって救命されたエピソードは有名である。実質的な近世の歌論史は,こうした派閥意識に基因する閉鎖性,権威主義の否定をモティーフとして,元禄期に始発するのである。まず戸田茂睡(もすい)は古今伝授を重んじる権威主義的堂上歌学を鋭く否定した。彼の著作は多いが,70歳のときまでの〈歌論〉を大成した《梨本集(なしのもとしゆう)》がある。《万葉代匠記》を著した契沖は茂睡と同時代人である。《万葉代匠記》は,下河辺長流(しもこうべちようりゆう)が水戸光圀に請われてはじめた万葉集注釈の作業を,長流老齢のため引き継いだ仕事であった。長流の師は《万葉集》を尊重した木下長嘯子である。つまり,長嘯子,長流,契沖という《万葉集》尊重の立場に立つ系譜が成立しつつあったのであり,こうしたなかから,田安宗武,賀茂真淵らが出たのである。宗武,真淵は論争もしていて,その〈歌論〉には差異があるが,権威主義的堂上歌学の否定,万葉尊重の大筋では一致していた。真淵の《歌意考》,《にひまなび》は,歌論史上,特に重要である。
一方,宗武に仕えた荷田在満(かだのありまろ),真淵に師事した本居宣長らは《新古今和歌集》を尊重し,その立場に立っての〈歌論〉を展開した。在満の《国歌八論》,宣長の《排蘆小船(あしわけおぶね)》,《石上私淑言(いそのかみのささめごと)》等がそれである。真淵が〈まこと〉を歌の中核とみたのに対して,宣長は〈あはれ〉をみようとしている(もののあはれ)。古典観の相違は当然のことながら,歌の本質論の差異に基づいていた。さらには,《古今和歌集》を重んじた小沢蘆庵,香川景樹らがいた。景樹の歌論《新学異見(にいまなびいけん)》は真淵の《にひまなび》に異をとなえた〈歌論〉であって,〈歌は調ぶるものなり〉とあるように〈しらべ〉を重視し,〈理(ことわ)るものにあらず〉として理を排し,感情の解放を主張して,新風を開いたのだった。
近代および現代では,印刷技術の普及および新聞,雑誌の発達を背景としておびただしい数の〈歌論〉が発表された。《二六新報》に発表された与謝野鉄幹の《亡国の音(おん)》(1894),《日本》に発表された正岡子規《歌よみに与ふる書》(1898),和歌革新運動の推進力となったこの二つの〈歌論〉が,早い時期のものとしてまず注目されるのである。近・現代の文学状況は小説中心に展開した。短歌はかつてのように日本文学の中心的位置にはなく,したがって〈歌論〉もかつてのように強力な他ジャンルへの影響力をもつことはなくなり,もっぱら短歌固有の問題に終始することで,文芸評論の一角を形成してきたのである。そうしたなかで,都合4度にわたる短歌否定論ないしは短歌滅亡論をめぐってのやりとりは,〈時代の詩〉としての問題,〈心〉と〈言葉〉の問題といった古典歌論以来の問題にあらたな角度から照明を当て,加えて西欧詩と日本の詩,伝統と現代,小説と詩といった新しい問題をとり込んで〈歌論〉の領域を広げ,かつ論点を深めたのであった。最初は,《新体詩抄》序(1882)にはじまるそれ,以下,尾上柴舟《短歌滅亡私論》(1910),釈迢空(ちようくう)(折口信夫)《歌の円寂する時》(1926),そして第2次大戦後の昭和20年代初頭のいわゆる〈第二芸術論〉時代,この4度である。歌の根拠,歌の存在理由を直接に問うたこれらの機会を典型的な場面として,〈歌論〉は文芸評論史のなかで独自の歩みを進めてきたのである。
執筆者:佐佐木 幸綱
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和歌についての理論的認識。「歌学」も同義語として用いられる場合が多いが、それは和歌についての種々の研究成果や知識を広くそうよぶのが本義である。歌論は、多くが作歌の実際に即しての教えとして説かれており、理論的な追究は江戸時代以降に現れる。歌論の形態を、ほぼ現れてくる時代順に示すと、歌書の序跋(じょばつ)、辞書あるいは分類書、秀歌選、説話集あるいは随筆、書簡、聞書(ききがき)などで、和歌概論的な組織的説述に『八雲御抄(やくもみしょう)』、理論化されたものに『国歌八論(こっかはちろん)』や『真言弁(まことのべん)』などがある。歌学知識の集成では『袋草紙(ふくろぞうし)』が代表的であり、『顕注密勘(けんちゅうみっかん)』などの歌集注釈書も一部に歌論的内容を含んでいる。また、同じ題の2首を組み合わせて比較論評する歌合(うたあわせ)の判詞(はんし)には、歌論的見解が豊富にうかがえる。
歌論は、日本文学史全体を通じて一貫した唯一のジャンルである和歌とともに、日本の文学論史の主軸として、江戸時代までは他のジャンルの諸芸術論に大きな影響を与え続けたが、近代になると、西欧の文学論の強い影響を受けつつ、『万葉集』など和歌伝統の再認識を媒介として脱皮し、近代歌論を再構築している。
[藤平春男]
(12世紀後半まで) 『万葉集』には、その歌集としての編集意識や題詞、左註(さちゅう)などに、表現美の認識や短歌の叙情性の自覚など、中国詩論の影響を受けながらも、歌論としての芽生えが認められる。奈良時代末期の藤原浜成(はまなり)『歌経標式(かきょうひょうしき)』(772成立)は最古の歌論書で、中国詩に倣っての韻律重視が注意をひくが、平安中期の初頭に成った『古今和歌集』の仮名、真名(まな)の両序こそが、その後の約1000年近くの間、和歌のあり方の規範となったのであった。『古今集』序の出現から約100年を経ての摂関政治全盛期に、藤原公任(きんとう)が『新撰髄脳(しんせんずいのう)』『和歌九品(くほん)』などに和歌の特質を示すが、それは声調、趣向および余情の指摘であり、歌合歌論の集約でもあった。院政期(12世紀)に入って、源俊頼(としより)が公任歌論を『俊頼髄脳』などで多角的に深めるが、それは虚構性の追究にほかならなかった。俊頼の影響下に藤原俊成(しゅんぜい)が登場し、中世歌論への方向を切り開くが、同時代の六条藤家(ろくじょうとうけ)の藤原清輔(きよすけ)や顕昭(けんじょう)は歌学研究に大きな成果を示したものの、歌論の深さには欠けている。
[藤平春男]
(12世紀末から17世紀初めまで) 俊成は最晩年『古来風体抄(こらいふうていしょう)』などで新しい和歌のあり方を説いたが、それは和歌的表現の特質を、生活実感の確認ではなく韻律の流れのうちに漂う情趣の広がりと深さに求めたのであって、その子定家(ていか)は韻律以上に歌語のイメージ表現を重視し、『近代秀歌』『毎月抄』などによって虚構の方法による叙情の回復を説いた。この父子による王朝的な美の伝統の世界に参入して歌う態度は、中世を通じて深い影響を与え、歌論の京極為兼(きょうごくためかね)『為兼卿(きょう)和歌抄』、正徹(しょうてつ)『正徹物語』、連歌論の心敬(しんけい)『ささめごと』および世阿弥(ぜあみ)や禅竹(ぜんちく)の能楽論などの思索を導き出している。定家の子為家(ためいえ)以後の二条家や冷泉(れいぜい)家、また飛鳥井(あすかい)家などの歌論、歌学は江戸時代にまで引き継がれるが、固定化した技法を説く傾向が著しく、いわゆる「古今伝授(こきんでんじゅ)」のような規範化した権威主義の歌学となっていった。
[藤平春男]
(17世紀前半から19世紀後半まで) 江戸時代に入り、戦乱がやみ経済的発達がみられるようになると、現実主義的傾向が文化の諸面に現れる。中世を通じて固定化してきた伝統的な古典美「雅」(みやび)に対し、しだいに現実感「俗」(さとび)を求める傾向が強まり、その相克が近世歌論を一貫する課題となった。規範的な中世歌学の束縛の否定は戸田茂睡(とだもすい)などにより強調されるが、前記のような雅俗論の課題は、近世中・末期に至って賀茂真淵(かもまぶち)(『歌意考』など)と香川景樹(かがわかげき)(『古今和歌集正義総論』など)とを主軸として深く追究されている。それぞれ立場は異なるが、荷田在満(かだありまろ)、田安宗武(たやすむねたけ)、また小沢蘆庵(ろあん)、富士谷御杖(ふじたにみつえ)、大隈言道(おおくまことみち)なども明確な理論的主張を残している。中期には真淵や本居宣長(もとおりのりなが)を中心とする国学的歌論が復古主義的傾向を示しながら、人間の純粋感情の表現としての和歌を説き、末期には現代人の叙情としての和歌を強調する景樹らの存在が目だっている。
[藤平春男]
(19世紀末以後) 明治10年代から20年代にかけて、まず伝統文学としての和歌否定論が現れ、和歌の近代化が課題となるが、それは落合直文(なおぶみ)を経て与謝野鉄幹(よさのてっかん)の「自我の詩」の主張を生み、ほぼ並行して、万葉集的な写実主義を標榜(ひょうぼう)する正岡子規(まさおかしき)の「写生」説を生んだ。鉄幹の新詩社による浪漫(ろうまん)主義と子規の根岸短歌会による写実主義とは、それぞれの流派の分化交錯によって深化されつつ複雑な流れを形成したが、伊藤左千夫(さちお)、島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明などのアララギ派、新詩社の流れをくむ石川啄木(たくぼく)や北原白秋(はくしゅう)、また太田水穂(みずほ)、窪田空穂(くぼたうつぼ)などは、それぞれ独自の立場を樹立して歌論を示し、各流派の源泉をなしている場合が多い。自然主義や社会主義の影響は短歌にも及んでいるし、太平洋戦争後の戦後短歌の歌論的展開もそれぞれ多岐にわたる問題をはらんでいる。
近代歌論のもっとも重要な課題は、現代にあってなぜ短歌を選ぶかということであり、敗戦直後現れた短歌第二芸術論もその否定的解答の一つとみるべきものであったが、現在はその定型に即しつつ現代詩としての独自性をとらえようとする方向を目ざしている。
[藤平春男]
『佐佐木信綱・久曽神昇編『日本歌学大系』10巻・別巻10巻(1956~97・風間書房)』▽『久松潜一他校注『日本古典文学大系65 歌論集・能楽論集』(1961・岩波書店)』▽『橋本不美男他校注・訳『日本古典文学全集50 歌論集』(1975・小学館)』▽『篠弘著『近代短歌論争史 明治・大正編、昭和編』(1976、81・角川書店)』
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…第1の時期には,親鸞や道元が仏教的立場から既存の宗派と既成道徳を徹底的に批評した(これは日本における一種の宗教改革であったということができる)。また藤原定家は最初の自覚的な歌論,すなわち文芸批評の原則を樹立した(これは貴族社会の内部から起こり,激しい社会的変動のなかで,文化的伝統を歴史的に自覚したという意味で,ヨーロッパの人文主義に通じている)。第2の時期には,本居宣長の儒教(およびある程度までは仏教)批評が,論戦の形をとってあらわれ,第3の時期,明治初年には,福沢諭吉らの啓蒙主義的な立場からの文明批評が活発になった。…
※「歌論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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