藤間勘兵衛(読み)フジマカンベエ

デジタル大辞泉 「藤間勘兵衛」の意味・読み・例文・類語

ふじま‐かんべえ〔ふぢまカンベヱ〕【藤間勘兵衛】

日本舞踊藤間流家元の名。7世まで続く。
初世)[?~1769]武蔵の人。生地の川越藤間村から姓をとったとされる。江戸に出て、振付師となる。
(3世)[?~1821]2世の養子で、初世藤間勘十郎を名のった。文化・文政年間(1804~1830)の舞踊家振付師で、江戸随一とうたわれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤間勘兵衛」の意味・わかりやすい解説

藤間勘兵衛
ふじまかんべえ

日本舞踊藤間流の祖。

[如月青子]

初世

(?―1769)武州(埼玉県)入間(いるま)郡藤間村(現川越市)出身。宝永(ほうえい)年間(1704~11)に江戸に出て踊りの師匠となり、のち藤間勘兵衛を名のり、劇場振付師となる。初めは初世中村伝九郎の門弟であったともいう。また、1758年(宝暦8)冬には森田座の長唄、唄方として記載されている。おもな振付け作品は『柱立』がある。

[如月青子]

2世

(?―1785)初世の子で、1772年(安永1)襲名と思われる。振付け作品に『蜘蛛拍子舞(くものひょうしまい)』『身替(みがわり)お俊(しゅん)』など。

[如月青子]

3世

(?―1821)魚問屋の丁稚(でっち)から2世の養女の婿となり、1790年(寛政2)襲名と思われる。98年に勘兵衛家を出て藤間勘十郎を名のったが、1819年(文政2)に旧名に戻る。名振付師として活躍し、『汐汲(しおくみ)』『舌出三番叟(しただしさんばそう)』など。3世没後は彼の妻が4世を継ぎ、以降、劇場振付を離れた。女性の町師匠として9世まで続いたというが不詳。1931年(昭和6)、3世藤間勘右衞門(7世松本幸四郎)が勘兵衛を名のり、勘十郎家との間に争いが起きたが、翌年勘右衞門は白紙に戻した。89年(平成1)、勘兵衛の名跡は勘十郎家、勘右衞門家の両家で守る約束ができた。

[如月青子]

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改訂新版 世界大百科事典 「藤間勘兵衛」の意味・わかりやすい解説

藤間勘兵衛 (ふじまかんべえ)

歌舞伎振付師。(1)初世(?-1769(明和6)) 武州入間郡川越在藤間村の人で,1704年(宝永1)江戸へ出て,初世中村伝次郎の門弟となり,中村勘兵衛と称し,のちに藤間勘兵衛と改名した。(2)2世(?-1785(天明5)) 初世の実子。《二人椀久》《犬神》《蜘蛛拍子舞》《身替りお俊》などの振付がある。(3)3世(?-1821(文政4)) 日本橋の魚問屋魚仙の丁稚であったが,2世勘兵衛に踊りの才を認められ,その養女みよの婿となって,1790年(寛政2)3世勘兵衛を襲名。98年一度養家を出て藤間勘十郎を名のったが,1819年(文政2)旧名に戻り,その間,名振付師として活躍した。門下に4世中村歌右衛門,4世西川扇蔵ら人材が多い。振付には,《源太》《汐汲》《舌出三番叟》《犬神》《晒女》など名作が多い。3世の没後は妻女がつぎ,以後明治まで町師匠として続いた。
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