江戸時代から1871年(明治4)7月の廃藩に至るまでの間に,藩において行われた法を,広い意味で藩法という。狭義では藩制定法および藩の判例法,先例法をさす。ただし藩法という名称は,明治になって用いられたもので,江戸時代には〈家法〉〈国法〉などと呼ばれた。宗門改め,度量衡,交通など江戸幕府の全国的支配権に属することを除けば,藩はかなりの自律を認められ,〈万事江戸之法度の如く,国々所々に於て之を遵行すべし〉(寛永12年武家諸法度)といった限定はあるものの,各藩はそれぞれ別個の藩法を施行した。一方,幕府制定法には,諸大名にも触れ知らせる法と,幕府領のみに発する法とがあった。前者について藩はおおむねこれを遵奉し,公儀御触(触)を藩内に触れ流したものの,藩の実情に合わない場合などあえてこれを無視し,藩内に施行しなかったこともまれではなかった。反面,大名にあてられたのではない幕府領だけの法に関しても,藩がこれを摂取し,これに倣おうとする場合も少なくなかった。
各藩でおもな藩法が成立するのは,主として2~4代藩主の時代,すなわち寛文~元禄期(1661-1704)といわれている。このころ作られた藩法が〈祖法〉とされて,後々まで藩において尊重された。社会的条件の変化,とくに藩財政の窮乏化は,このような祖法の維持を困難にさせ,中・後期には藩の実情に適合するように藩法の改変が行われたが,なお祖法は墨守すべきものとの理念は根強く残存した。藩法が幕府法に対してどの程度独自性を有したかは,藩によって相違があり,外様(とざま)の大藩や辺境,後進地にある藩に独自性が強く,また藩主や重臣に有能な人物がいる場合も同様であったといわれる。これに対して親藩や中小の譜代藩では,幕府法の影響が大きく独自性は弱かった。しかし諸藩は幕府法を積極的に摂取し,これによって藩法を補強しようとしたから,時代が下るにつれ,一般に藩法は幕府法との類似性を強め,幕府法化する傾向を示した。藩の制定法,判例法などで現在紹介されているものには,例えば次のようなものがある。
(1)刑法典 藩制定法の多くは単行法令の形で出されたものであったが,幕府における《公事方御定書(くじかたおさだめがき)》の制定が刺激となって,いわゆる藩刑法典を編纂した藩も少なくなかった。これには《公事方御定書》を模倣した御定書系のものと,中国法を移入した明律(みんりつ)系のものとの2種類がある。(a)御定書系統のものは,1778年(安永7)の福井藩〈公事方御定書〉,89年(寛政1)の丹波亀山藩〈議定書〉,1809年(文化6)の盛岡藩〈文化律〉,25年(文政8)の松代藩〈御仕置御規定〉,52年(嘉永5)の鳥取藩〈律〉が知られている。なお1745年(延享2)に制定され94年に全面的な改正が行われた尾張藩〈盗賊御仕置御定〉も,《公事方御定書》の影響の下に成立した刑罰法規である。なお刑法典を編纂するのでなく,幕府に随時問い合わせるなどして,《公事方御定書》に基づく裁判を行った藩も少なくない。(b)明律系統としては,1754年(宝暦4)の熊本藩〈御刑法草書〉をはじめ,84年(天明4)の新発田(しばた)藩〈新律〉,96年の会津藩〈刑則〉,97年の弘前藩〈寛政律〉,享和・文化年間(1801-18)の紀州藩〈国律〉,1862年(文久2)の同藩の〈海南律例〉などがある。中でも〈御刑法草書〉が追放刑の大部分を徒刑(とけい)に替えたのは,日本における近代的自由刑の誕生として高く評価されている。なお新発田藩〈新律〉および紀州藩〈国律〉には明律のほか御定書の影響も見られ,明律御定書折衷系という第3の系統に属すべきものとみる説もある。このほか,御定書にも明律にも依存せず,藩独自で編纂された独自系統の存在を主張し,1793年ごろ成立の加賀藩〈御刑法帳〉がそれにあたるとする説もある。なおこれらいわゆる藩刑法典は,一般に《公事方御定書》と同様,公布されたものではなく,裁判役所部内の裁判規準として用いられたと考えられるが,ただ御定書系刑法の中には,御定書を修正して科刑の幅をもたせることによって,体系的刑法典としての性格を付与しようとしたものも多かったと指摘されている。
(2)法令集 主として近世中期以降,諸藩において藩の事業として,あるいは私撰の形で,藩法令集の編纂が行われた。鳥取藩〈御国御法度〉,岡山藩〈法例集〉〈備藩典刑〉,徳島藩〈元居書抜〉,加賀藩〈御定書〉〈典制彙纂〉〈司農典〉〈町格〉〈国令分類〉,久留米藩〈御書出之類〉,薩摩藩〈列朝制度〉,尾張藩〈尾藩令条〉〈尾州御定書〉〈類聚尾藩諸法度〉〈触状通辞留〉,高崎藩〈御定書幷被仰出留〉〈被仰出留帳〉,挙母(ころも)藩〈諸被仰出留〉などがそれである。このほかにも藩の触書類を集めたものは枚挙にいとまがない。
(3)判例集,内規集 判例集ないし刑事先例集として,高崎藩〈御仕置例書〉,仙台藩〈評定所格式帳〉〈刑法局格例調〉,尾張藩〈御糺類書抜〉,中村藩〈罪案〉などがあり,藩の内規例規集と称すべきものに,高崎藩〈規矩帳〉〈目付要書〉〈郡方式〉〈町方式〉,佐伯藩〈御定書〉などがある。
(4)以上は江戸時代の藩法であるが,明治初年には新時代を迎えて,いくつかの藩で藩法,とくに刑法典を改革し,重刑の緩和,追放刑の徒刑への移行を図ったことが指摘されている。この時期の藩刑法典として名古屋(尾張)藩〈徒刑御定〉,金沢(加賀)藩〈刑律釐正(りせい)〉,岡山藩〈刑律〉,和歌山(紀州)藩〈刑法内則〉などがある。
執筆者:林 由紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸時代、諸藩で行われた法規の総称。藩は元来、大名の領分を意味したが、江戸時代の後半には大名の支配機構をも意味するようになった。各藩が藩治のために制定したものが藩法である。江戸時代の領知のうち3分の2は藩が占めるのであるから、藩法の占める重要性はきわめて大きい。しかし、第二次世界大戦前では、藩法の資料は各旧大名家に秘蔵されるものが多く、これの利用は困難であった。戦後、諸種の事情で大学に移管されるものがあり、別に、後に述べるように藩法集も刊行され、「地方史」に掲載される藩法も少なくなく、その利用は容易になった。
藩法は戦国時代の分国法(家法)の後身といえるが、その内容は、大名の家政に関する私的な部分を除くと、藩の封建制に関するものと、庶民の生活に関するものとに分けられる。いずれも幕府の影響を受けることの多いものと、少ないものとある。尾張(おわり)の徳川家の藩法は幕府法に近いといわれるが、薩摩(さつま)藩法のごときは独自の部分が多い。いずれにしても、大きな流れに着目すれば、しだいに幕府法化したといえるであろう。大藩には資料も多く、独自の体系をもったものもあるが、小藩ではそういうことのできないものも多く、幕府の奉行(ぶぎょう)に対してどういう扱いをしてよいか問い合わせ、その回答に従ったものも少なくない。こういう面でも幕府法化が行われた。藩法の研究には「藩法集」の刊行がきわめて重要であるが、藩法研究会では、岡山、鹿児島、金沢藩など諸藩の「藩法集」を刊行して、研究の便を図っている。
[石井良助]
『藩法研究会編『藩法集』全12巻15冊(1959~75・創文社)』▽『長沢巷一監修、京都大学日本法史研究会編『藩法史料集成』(1980・創文社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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