行基図(読み)ギョウキズ

デジタル大辞泉 「行基図」の意味・読み・例文・類語

ぎょうき‐ず〔ギヤウキヅ〕【行基図】

行基が作ったとされる日本地図。現存しないが、体裁を模したと考えられるものが平安時代から江戸初期まで各種流布した。

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精選版 日本国語大辞典 「行基図」の意味・読み・例文・類語

ぎょうき‐ずギャウキヅ【行基図】

  1. 奈良時代聖武天皇七二四‐七四九)のとき行基が作ったとされる日本地図。原図は現存しないが、体裁をならったと考えられる日本地図が江戸初期まで各種普及して、こう呼ばれた。

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改訂新版 世界大百科事典 「行基図」の意味・わかりやすい解説

行基図 (ぎょうきず)

江戸時代初期以前に日本で作られた日本全図のうち,五畿七道の諸国を平滑な曲線で囲み,山城(京都)を起点とする諸国への経路を記入した簡略な図の総称。行基型(または行基式)日本図ともいう。名称のおこりはこの種の図に奈良時代の高僧行基の作である旨の記載があることによる。とはいえ,大和(奈良)を起点とした経路を記入する図は現存しておらず,行基の作というのは後世の付会であろう。

 最古年紀のある行基図は,京都の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)に伝わっていたという805年(延暦24)改定の《輿地図(よちず)》(江戸時代の模写)で,行基図の特徴は十分に備えているが,行基の名は記載されていない。これに次いで古い日本図は,13世紀後半の作と考えられる横浜の称名寺(しようみようじ)所蔵(金沢文庫保管)の図であるが,東半分は失われていてしかも諸国への経路の記入がないので,厳密には行基図の範疇に入れ難い。行基の作である旨の記載をもつ最古の遺品は,京都の仁和(にんな)寺所蔵の図で,1305年(嘉元3)の書写であることが明記されている。次いで古いのは,14世紀前半成立の《拾芥抄(しゆうがいしよう)》所載の大日本国図で,行基作という記載がある。誤謬の少ない1589年(天正17)書写本(尊経閣文庫蔵)についてみると,図中に諸国からの調庸物運搬所要日数や海陸交通関係地名などの注記があり,その豊富さは行基図として他に類がない。調庸物運搬日数の記入という点では,15世紀中期の《二中歴》所載日本図2種のうち記載の詳しい方の図と共通しており,両者ともに元来は官庁保管の大型詳細な日本全図を源流とするものであったことを示唆している。なお《二中歴》所載図は2種とも京都を起点とする諸国への経路と諸国名が記されるのみで,国々の境域を描示しないので,〈道線日本図〉の名でも呼ばれる。古代・中世の人々が日本全域の略図に求めたものは,中央と地方とを結ぶ交通路と諸国の関係位置とであったと言えるであろう。

 《拾芥抄》所載図に次いで古い行基図は,唐招提寺所蔵の《南瞻部洲(なんせんぶしゆう)大日本国正統図》で,16世紀半ばの作品と考えられる。行基図は江戸時代に入っても廃れることはなく,たびたび刊行をみた。国土の概念を得るのに便利であったからであろうが,また行基の名に権威を感じたからでもあろう。

 行基の名がこの種の簡略な日本全図に結びついたのは,追儺(ついな)の儀式の媒介によるものと思われる。なぜなら,仁和寺所蔵図には追儺の行われる12月にわざわざ〈寒風を絶って書写し〉,しかも〈部外者に見せてはならない〉とさえ記してあり,その図が単なる地理的情報源でなかったことを物語っているからである。一方,追儺は706年(慶雲3)行基の奏上によって始まったと伝えられているからでもある。《延喜式》記載によると追儺の際,陰陽師(おんみようじ)が読み上げる祭文の中に,邪鬼を放逐すべき国土の四方限界が具体的に示されているので,日本全図が追儺の儀礼に用いられる品の一つになり得る素地は十分にあったと言える。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「行基図」の意味・わかりやすい解説

行基図
ぎょうきず

奈良時代に僧行基(668―749)が作成したと伝えられる日本国地図。京都仁和寺(にんなじ)蔵「日本図」(1305=嘉元3)、洞院公賢(とういんきんかた)(1291―1360)撰(せん)『拾芥抄(しゅうがいしょう)』収録の「大日本国図」など数個の例品があり、山城(やましろ)(京都府)や大和(やまと)(奈良県)の諸国が団子を連ねた形で描かれ、七道の道線が記されるのが特色である。しかし、行基の伝記史料の「墓誌」、『続日本紀(しょくにほんぎ)』行基伝、『行基年譜』などに日本図はみえないし、奈良時代に彼が描いた地図は伝わっていない。行基が布教と社会事業施設(農業・交通関係)造営に畿内(きない)を回ったことから推測し、738年(天平10)8月26日国郡図を諸国から政府に提出させたこと(続日本紀)に彼が関与したと結び付け、高僧の彼が日本地図を描いたとの伝説が生まれ、後世に地図作成の栄誉を彼に付与したのであろう。

[井上 薫]

『秋山武次郎著『日本地図史』(1955・河出書房)』

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百科事典マイペディア 「行基図」の意味・わかりやすい解説

行基図【ぎょうきず】

江戸時代初期以前に作られたおおまかな日本全図の総称。名称は行基が作ったとの伝承による。丸みを帯びた日本全体の輪郭線の中に,畿内を中心として,七道の方向,諸国の順位と隣接関係が示される。行基図は平安〜江戸初期まで襲用され,16世紀末には西欧にも伝えられてオルテリウスらの日本図のもとになった。有名なものに賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨社)の延暦24年(805年)輿地図(よちず),鎌倉末期の《拾芥(しゅうがい)抄》中のもの,唐招提寺の南贍部洲大日本国正統図(なんせんぶしゅうだいにほんこくしょうとうず),豊臣秀吉が所持した扇面の日本近域図,福井県小浜(おばま)市発心(ほっしん)寺の日本図屏風などがある。
→関連項目古地図

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「行基図」の意味・わかりやすい解説

行基図
ぎょうきず

奈良時代の僧行基が作成したといわれる日本で最初の全国地図。実物は現存しないが,それを踏襲模写した「行基式日本地図」は残存し,最古のものとして平安時代のものがある。延暦 24 (805) 年改正輿地図である。また鎌倉時代末の嘉元3 (1305) 年に写された京都仁和寺蔵の日本図が書写年代が明らかな最古のものといわれている。いずれも,縮尺は 200万分の1程度。おもに本州,四国,九州の国々と周辺の島々,さらに五畿七道の街道などを見取図的に描き,海岸線は丸みを帯び,各国の形状も俵状をなしていて,日本列島の輪郭や国々の関係位置,島嶼などが,ほぼ現行日本地図に近い形で表現されている。その後,徐々に修正が施されるに従い,図形も変容を受け,島数や記載文字も新たに追加され,地図としての正確さを整えつつ江戸時代の初期まで使われた。

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世界大百科事典(旧版)内の行基図の言及

【絵図】より

…これらの地図には方格の記入はないが,測量に基づくものであることはその内容から見て明らかであり,少数ながら精度の高い図も残っている。 日本全図の古いものとしては,16世紀以前の作品が数点残っているが,称名寺所蔵図(13世紀後半),《二中歴》(15世紀中期)所載図を除いては,平滑な曲線で示される海岸線・国界,山城を起点とする諸国への道線を描示する点で共通しており,それらは〈行基図〉と総称される。〈行基図〉であると否とにかかわらず,いずれも大型の官撰図から派生したものに相違ないが,古代・中世の日本全図については〈行基図〉の項を参照されたい。…

※「行基図」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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