翻訳|equity
英米法系で,厳格法たる普通法,コモン・ローと対比され,もともとは衡平・正義感を基準にしてのコモン・ローの補正原理であったものが,判例法として凝固してでき上がった法の総称。すなわち衡平法とは,厳格で形式的・一般的な法に対して,個々の事件のもつ特殊性を重視し,普遍性のゆえに不完全となりうる法を具体的に補正する原理であったエクイティ(衡平)が,イギリスにおいては特殊な歴史的理由から,法をつかさどる裁判所すなわち各種のコモン・ロー裁判所とは別の裁判組織で体系的につかさどられるうちに漸次固定化・組織化され,コモン・ローとは別ではあるが同じような一種の実定的な判例法になってきたものを呼ぶのである。したがって,抽象的な衡平・正義そのものではない。衡平法とは呼ばず原語のままエクイティと呼ぶ場合も多いが,原語では抽象的な衡平と法としての衡平法の区別がされていない点も注意したい。
イギリスで12世紀後半以後に成立してくるコモン・ローは,中央集権化された国王裁判所の判例が集積してできたものである。このコモン・ロー裁判権の源泉である国王裁判権は,もともとは国王を中心にした国王評議会で行使されていたが,国王裁判権の拡大とともに各種のコモン・ロー裁判所が漸次分化・独立した。しかし,このことは,国王ないしは国王評議会の裁判権のすべてがコモン・ロー裁判所に委任されたことを意味しなかった。国王は,裁判所でもなお救済されぬような不正をただす国王大権を依然持ち続けていたのである。ところで,12世紀以後ほぼ1世紀間に成立・確立したコモン・ローは13世紀末ごろから専門技術化し,手続法・実体法ともに固定化・形式厳格化の傾向を見せ始め,それにつれ現実の法生活には多くの支障が生じ,したがって裁判所の匡正しえぬ不正の救済を求めての国王への請願が増大してきた。請願が増大すると,国王ないし国王評議会は国政の合間にこれらを処理することが事実上困難となり,14世紀ころには国王評議会の成員でもある国王の高官にその処理を委任するようになった。とりわけ,国王の秘書長であり,国王評議会の事実上の議長であり,かつ高位聖職者でもあった大法官Chancellorへの委任が,歴史的に見て重大であった。ここで扱われた請願には,コモン・ロー裁判所が管轄権を有していないが実質的に見て正義に反する結果を招いている事件と,管轄権はもつが,原告側の貧困とか,相手方の暴力・圧制あるいは役人や陪審の瀆職(とくしよく)による妨害などから,国王の特別恩寵を求めざるをえない事件とがあった。大法官は請願処理にあたり,請願がなされた理由から当然推測できるように,コモン・ローの通常のやり方にはのっとらず,自らの正義・衡平感に基づき,自らが最適と思う手続に従い,実質的正義を与えるよう努力した。その結果ここでの手続は,ラテン語の不使用,形式自由の訴状や申立て,証拠に関する厳格な準則の不存在,陪審の不使用,さらには大法官の私宅でも開廷しうることなど,形式性・厳格性が少なく実効性を最大目的としたものであった。判決そのものも,コモン・ローが時代遅れとなっていた面が多かっただけに,より現実に即応したものが多かった(例えばコモン・ローが金銭賠償しか認めぬのに対し,特定の行為を命じたり禁じたりしうる点など)。そのために,大法官による請願処理・裁判は,コモン・ロー裁判に比べ効果的でかつ迅速廉価であることが多く,かくしてもともとは例外的なこの大法官による裁判は,訴訟当事者から大いに歓迎され,本来はコモン・ロー裁判所に訴え出るべきことまでも,なんらかの口実で持ち込まれるようになる。その結果15世紀半ば以降には,大法官の役所である大法官府Chancery内に裁判を専門にする部署ができ,これが大法官府裁判所Court of Chanceryとして分化・独立したものと考えられるようになり,また,厳格な法=コモン・ロー準則ではなく,衡平を基準にして裁判がなされるということで衡平裁判所court of equityとも呼ばれるようになる。
本来,衡平は法を補正し,大法官府裁判所はコモン・ロー裁判所と提携関係にあると考えられ,両者は平和的に共存していた。しかし大法官府裁判所が16世紀までにその管轄をきわめて広くしたために,管轄が衝突する場合が多くなり,かくしてコモン・ローに寄生するコモン・ロー法曹の職業的利益が侵されることにもなり,絶対王政とその反対派との政治的争いもからんで,16,17世紀にはこの提携関係が崩れ,両者はしばしば闘争を繰り返した。特にコモン・ロー支持,反絶対王政側のリーダーであるE.クックと大法官エルズミアLord EllesmereおよびF.ベーコンとの激突は有名であるが,その結果の国王の裁定(1616)により,大法官府裁判所の権能は最終的に確認され,革命期の一時的危機の後,王政復古(1660)以後はその存在は脅かされることなく隆盛となった。
このように大法官府裁判所が確立されてくると,いかに具体性を尊重するとはいえ,多数の類似の事件に異なった判決を与えることはそれ自体が衡平に反することになり,ここに集積された判例を中心にした慣行・判例法が生じてくる。もともと厳格なコモン・ローを修正すべく準則に拘束されずに行われてきた裁判に,準則が生じてくるのである。この傾向は15世紀半ば以降にまでさかのぼれるが,17世紀に判決理由を付け始め,この判決理由を付した判例集が出始めるといっそう強まり,18世紀から19世紀に頂点に達する。すなわち,衡平が衡平法になったのである。
現在では衡平法はコモン・ローと同様判例法である。しかし衡平法はコモン・ローを衡平に基づき補正するために生じた法であるゆえに,コモン・ローよりは柔軟で,裁量の余地も広い。また衡平法は,その最初から信託等を中心にした土地に多く関していたため,土地法には衡平法上の準則が多い。これら衡平法上の準則はコモン・ロー上の準則と同様に法技術的で厳格なものである。なおイギリスでは,1873-75年法以降,衡平法を管轄していた大法官府裁判所がコモン・ロー裁判所と統合され,この統一された裁判所がコモン・ローと衡平法の双方を適用している。しかし法理は従来と変りなく,この意味で英米法は現在でも二元的である。
執筆者:小山 貞夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…具体的現実からのフィード・バックによる既存の類型化基準の精緻化・改良が衡平の真のねらいであり,それは正義の普遍主義的要請をむしろ前提している。アリストテレスが法的正義の補正原理としての衡平を,ある〈種〉の正義よりも優れているが,正義という〈類〉を超えないとしたことや,イギリスで,硬直したコモン・ローの個別的補正として始まった衡平法が,確立された一般的準則の体系に発展していった歴史的経緯も,この点を確証している。なお国際司法裁判所規程38条2項によれば,当事者の合意によって,〈衡平と善〉に基づいて裁判ができるとある。…
…この代表的なものが,国王評議会の有力成員である大法官Chancellorが担ったコモン・ローの補正としての衡平(法)および大法官府裁判所の起源である。後にはこの判決例も漸次集積し,コモン・ローとは別体系の一種の法,すなわち衡平法を形成するに至った(15世紀以後)。このような新裁判所および新しい法の生成の動きに,今までコモン・ローおよびコモン・ロー裁判所に寄生し,むしろ現実に見合った形の改革をその職業上の利益から妨げてきたコモン・ロー法曹が,みずからの職業を脅かされて重い腰を持ち上げ,改革に乗り出す(16世紀以後)。…
※「衡平法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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