中国で,従来正字体とされてきた筆画の多い漢字,いわゆる繁体字に対し,画数を減らして簡単にしたものをいう。簡化字ともいう。ただし〈簡体字〉には使い方が2種類あり,こういう一般名詞つまり日本でいえば〈略字〉というのにほぼ相当する使い方と,他の一つは1956年国務院から公布された《漢字簡化方案》に含まれ,新聞雑誌書籍などで使われる,現在第一の正字体という意味での使われ方である。日本でいえば《常用漢字表》に含まれているものと同じ性質の,いわば固有名詞的な使い方である。
前者,一般名詞としての簡体字は,漢字発展の歴史そのものが,概していえば前の時代の正字体をつぎつぎに簡略化し,その簡略化したものをその時代の正字体として公認するという段取りの繰返しであったともいえるぐらいだから,まして社会運動としての〈文字改革〉ということになると,その中の非常に大きな部分が漢字のこの簡略化であり,それはローマ字の国字としての採用を目ざす運動と並んで,運動の最も重要な柱のうちの一本となることはきわめて自然のことであった。それ以外の,人造の新字をもって漢字に替えようという運動は結局は実らず,置きみやげとして漢字のルビとして今でもときに(台湾ではむしろ常に)使われる〈注音字母〉をのこすだけで終わった。ローマ字化運動にしても,少なくとも現在のところ,比較的近い将来において漢字にとってかわって,ローマ字が第1位の国字になりそうな気配はない。漢字の筆画を簡単にして記憶するにも書くにも便利にしてゆくという漢字簡化の方向が最も賢明な文字改革の道であると現在考えられているとして,おそらくはまちがいないのである。そうして,そういう考え方の政策化が,先にいう〈固有名〉としての簡体字なのであった。その将来についてなんらかの展望をもつことを目的として,ここではその〈固有名〉としての簡体字についてそれが置かれている環境を紹介する。
周恩来の1958年1月,政治協商会議全国委員会が開催した報告会での報告〈当前文字改革的任務(当面の文字改革の任務)〉によると,当面の文字改革の仕事は3項に分けられる。〈簡化漢字(漢字を簡単にする)〉,〈推広普通話(共通語を普及する)〉,そうして〈制定和推行漢語拼音方案(中国語のつづり字化案を制定し,施行する)〉の3項がそれである。〈漢字簡化〉は一日も早く文字を大衆自身のものにすることである。〈共通語の普及〉は,しばしば外国語どうしの間に見られるほどの,とくに発音上の大きな差異をもつことがあるとされる中国語諸方言が,その表記という点からいうと非常に早くから中国全体ただ一つの〈漢字文化圏〉を形成してきていて,ひとまずは〈表意〉的な漢字を媒体とすることにより意味の伝達には事欠かなかっただけに,逆にかえってそうした方言圏には普及しにくかった〈共通語音〉の教育をすすめ,全国共通語の設定を文字面のみならず文字の音の上からも確実なものにしようとするのである。
この共通語音の普及は,第3項〈中国語つづり字化案〉のためにもその基盤を準備するものとなる。なぜなら,これまで〈表意〉漢字の裏にかくれて共通語音の普及を妨げてきた方言の温存によって,もしそれをそのまま〈つづり字〉として表記しようとするかぎり,漢字でならただ1字で表せるものが,極端にいえば方言の数だけ異なったつづりを用意しなければならないことになってしまう。〈共通語音〉の教育をすすめて,耳からもまたつづり字の上からも,その共通語の意味が聞き取れ読み取れてはじめて,〈つづり字化案〉も意義をもつことになるのである。そうして周報告は,〈これから公布する中国語つづり字化案の草案は,過去の直音,反切,それにさまざまなつづり字化案の基礎の上に発展して来た。……この案は歴史上存在し,また今でもなお使われているどんなローマ字式つづり字化案に比べても,確かにいっそう完全なものとなっている〉といい,また〈なぜローマ字か〉ということについても,〈それに手を加えて中国語の要求にこたえられるようにした以上,それらはすでにわれわれ自身の中国語のつづり字母であり,もはや昔のラテン語の字母ではなく,ましてどこの国の字母でもない〉,そして〈このことは,われわれの愛国的感情にどんな損害をも与えるはずがない〉ともいう。〈つづり字化案〉が,現在そういう用途に使われることが多いにしても,かつての〈注音字母〉が結局そうなってしまったような,漢字の単なる補助手段,漢字に発音を示すためのルビを振るのが唯一の仕事だというようなことになることが望まれていないことは明らかである。
周報告は続けて,〈漢字の前途ということなら,それが千年万年,永遠に変わらないのか,それとも変わるのか。それは漢字自体の形体変化という方向に向かうのか,それともつづり字に取って替わられるのか。それはローマ字式のつづり字に取って替わられるのか,それとも別の形のつづり方に取って替わられるのか,この問題に,われわれはいま急いで結論は出さない〉という。そうしてさらに〈ただ,文字はどうしても変化するものであることは,漢字のこれまでの変化によっても証明することができる。将来も必ず変化するだろう。……かつ,こういうことができる。世界のどの民族の文字のかたちも,将来必ずだんだんと統一されるという日が来るだろうし,ことばでさえ最後にはやはりだんだんに統一されるだろう〉ともいう。全世界の人がただ一つの共通語を操るというような日の到来を,われわれは簡単には想像することができないが,ここに遠い将来にわたっての展望として,全世界の人々が共通に使うような文字が作られるとした場合,それが漢字の変化あるいは簡化の延長線上にあるとはまったく考えられていないらしいとだけはいえるし,その時中国人自身が中国語を表記する手段としての漢字が,そういう世界共通の文字のほかに存在しつづけるという可能性についても,少なくとも触れる所がない。
文字改革の行き方として,当面主流であるのはたしかに漢字の簡化であり,それはその時々の政治状況のありかたによって漢字離れの時期が近そうに見えたり,あるいは逆に遠のいたとみえたり,変動を繰り返すことはあるかもしれないが,それは比較的短いサイクル内でのことであり,大勢にはかかわらない種類のことで,とにかくすべての人の使うものとしては,漢字は廃止の方向に向いているものと考えてもいいのではないか。たとえばこれまで発表されたる二つの簡体字の表のうち,第2のもの,《第二次漢字簡化方案》は,1977年5月中国文字改革委員会から〈草案〉として公表され,それは《漢字簡化方案》がそうであったようにまず〈試用〉し,その結果の検討討議を経て,やがて公布せらるべきものであった。さまざまの理由はあったであろうが,現在〈試用を停止〉するという形で,いわば〈ひっこめられて〉いる。そうしてこの《第二次方案》が,漢字の簡化をいっそう強く推し進めるものであることが否定できない以上,漢字簡化という政策自体,見直しの時期に来ているのであり,簡化そのものもやがてまた〈ひっこめられて〉旧態に復するのではないかというような観測が出て来ることも予想できないではない。なぜなら次のような事実が観察されるからである。
そもそも《漢字簡化方案》以後の出版でも,それが古典に関わる限り二手あって,一方は古典もしくは古典についての研究を,すべて旧来の繁体字によって印刷するもの,一方はそれらもすべて簡体字によって印刷するものの二つである。いわゆる〈文化大革命〉の時期,古典にかかわる出版が全体として極端に少なかったのは事実だが,その時期の出版では中華書局の《二十四史》などを例外として,古典もしくはそれについての研究といえども,すべて簡体字によって印刷する例が多かった。今それとは逆に,繁体字による出版は,出版全体に対する比率として明らかにふえつつあると見える。古典にかかわる出版が繁体字によってなされる例は〈文化大革命〉以前からあったのだから,そういうものの比率がふえるというのは,要するに古典関係の出版がふえたという事態の表現であるにすぎないとも考えられよう。しかし,簡体字で書くことを忌避し始めているのではないかと思える例さえもある。
印刷の便宜のためであろうが,一般にある出版の主要部分が繁体字によって行われると,奥付に至るまでの全体も繁体字印刷で通すということがあるらしい。ところが,ある雑誌の全体が簡体字によって印刷されている中で,ただ1編だけ繁体字であるような,しかも内容から見て特にこの1編だけそうでなければならない理由が当事者の好みの問題とでも考える以外に見つけられないというような例が,まれにだが,見かけられることがある。こうしたことが許される背景として先に触れたような,漢字簡化の〈ひっこめ〉ないしは〈後ずさり〉があると考える人があることはごく自然だからである。しかしこれも,〈文化大革命期〉の極端な〈左傾〉とそれにもとづく〈漢字簡化の行過ぎ〉,すなわちなんでもかんでも簡体字,という行き方に対して,おくれて出て来た反発があり,そうしてまた,それも無理からぬものとする政治ないしは社会の,いわば特例を認めるような形でのある種の共感もしくは許容というようなものによってたまたま可能となる場合があった,と考えた方がいいと思われる。いかに特殊な研究といえども,簡体字だけしか知らないようなものには読めなくともいいというような考え方が,許される社会ではないはずだからである。
周恩来のさきの報告によって見ても,漢字に未来永劫にわたる生命があると考えることが正しいとは到底思えないが,一方また彼が,〈漢字の前途という問題については,みんな異なった意見をもっているから,議論しあったらよろしい。私はここでこれ以上語ろうとは思わない。なぜならそれは当面の文字改革の任務という範囲にはないからである〉といって議論をおさめているのを見れば,漢字はさらにその簡化を強めながら,かなり長期にわたって使いつづけられると考える方が事実に近いであろうからである。
付表として1964年3月,《漢字簡化方案》のすべての簡化字を収録して発表された《簡化字総表(第二版)》の〈第一表〉〈第二表〉をそれぞれ筆画順に並べかえ,拼音(ピンイン)によって発音を示したものを掲げる。未施行の《第二次漢字簡化方案(草案)》,いわゆる〈二簡〉は省略した。《総表》の〈第一表〉はそれぞれが独立していて他の文字の部分とはならないもので計352字。〈第二表〉は,一応は独立した文字ではあるがそれが他の文字の部分となったときにもその字体であるべきもの132字と,独立の文字ではなく他の文字の部分となったときにだけこの字体になる〈簡化偏旁〉14種である。たとえばなどはそれぞれ,〈言偏(ごんべん)〉〈食偏〉〈糸偏〉〈金偏〉の場合のときだけの字体で,独立に〈言〉〈食〉〈糸〉〈金〉の字として用いられるのではない。《総表》にはこのほかに〈第三表〉があって1754字を含んでいるが,それは常用字について〈第二表〉を適用した結果を示すもので1754字を含むが,ただたとえば字のようにという三つの簡化された要素を含む場合,それぞれの場所で別々に検索できるようにしてあるので,並べられている実際の字数はそれよりもはるかに多い。《総表》の〈付録〉の一部をなす39字は漢字の簡化と表裏一体となって〈文字改革〉の一部となるべき〈字体の統一〉に関するもので,日本の常用漢字の〈直〉に当たるのが〈直〉であり,〈广〉の繁体字の正体がもとは〈廣〉とされていたのに今は〈廣〉であるのと同類の事柄である。
〈草案〉第一表にはまた一と二とがあるが,一は《総表》の〈第一表〉に当たる独立の172字,二は〈第二表〉に当たる他の文字の部分となりうる21字を収める。〈草案〉の第二表は,以下の(1)~(7)までの7類269字,(8)類の,(1)~(7)類中他の文字の部分となりうる24字,あわせて293字を収める。類に従って例示すれば,(1)同音もしくは近似音による置換え,たとえば鞭を卞で。(2)その形声字への適用,たとえば澳を沃で。(3)文字全体の中から特徴的な筆画を抜き出してきて全体に替える,たとえばをで。(4)全体の輪郭を印象として残しながら中間を省略する,たとえば耳をで。(5)草書体を楷書体にして用いる,たとえば事をで。(6)新しく会意文字を作る,たとえば聚をで。(7)筆画の多い字の一部分を符号化する,たとえば魏をで。(8)以上7類のものを,他の文字の部分となったときにも用いる,たとえば耶をで,というぐあいである。
実はこれらは原理としてすでに《総表》の中にも行われているもので,(1)髪-,(2)-迁,(3)飛-,(4)寧-宁,(5)専-,(6)塵-,(7)隊-,(8)潑-,のようにどの類についても例をあげることができる。〈草案〉についてはとくにこの第二表に非難が集中し,ひいてはその第一表をまで“ひっこませる”ことになったというが,原理が上述のように既存のものである以上,反感は,そうまでして簡体字をふやさずとも,という数量の問題にむしろかかわると見ていいであろう。第一表所収のものにも議論がないわけではなく,両表あわせたものの中から,ひとまず116字を選び出し,それについての検討からやり直すことが求められているところと伝えられる。
執筆者:尾崎 雄二郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
漢字の略字に対する中華人民共和国での呼称。1956年に国務院が公布した「漢字簡化方案」で515字の簡体字が制定され、従来の繁体字(はんたいじ)(本字)にかわり、正式字体として使用されている。同時に54種の偏旁(へんぼう)(漢字の部分をなす偏や旁(つくり))にも簡体が定められ、これによるもの、および1964年の追加分を含め、約2200字が簡体字となった。字画の大胆な省略が多く、日本の略字(常用漢字)と一致するものもあるが、字形の異なるものが少なくない。
[平山久雄]
『大原信一著『文字改革』(『日本語の世界3 中国の漢字』所収・1981・中央公論社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…というよりも,漢字発展の歴史そのものが,概していえば略字化,簡略化への道すじであったといってさしつかえない。今の〈簡体字〉はその道すじの中の一つの段階であるにすぎない。〈今の〉簡体字は,いわば国定という特定の略字のセットだが,簡体字をそういう〈固有名〉に限らないとすれば,簡体字すなわち略字として,漢字の歴史そのものが,次から次へと作られる簡体字の歴史であったといっていいのである。…
※「簡体字」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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