谷田村(読み)やたむら

日本歴史地名大系 「谷田村」の解説

谷田村
やたむら

[現在地名]三島市谷田・柳郷地やなぎごうちにしきおかまつおか

箱根はこね山西麓裾に位置し、大場だいば川沿岸に立地する。西は同川を挟んでなか村、北は一部東海道を挟んで川原かわはら村。元来谷田・御門みかど夏梅木なつめぎ小山こやま竹倉たけくらの五集落に分れていたが、江戸時代に竹倉が独立したという(増訂豆州志稿)。嘉暦二年(一三二七)五月一八日の聖禅譲状写(「諸家文書纂」所収万沢家文書)に「やたのかう」とみえ、同郷のうち「たきくら」の田一町三反半などが聖禅より某氏に譲られ、一期の後は孫の南部三郎(行宗)に譲るよう指示されている。


谷田村
やたむら

[現在地名]知立市谷田町

北は村、西はなか村と隣する。中村の枝郷。明暦四年(一六五八)中村から高一三二石八斗五升を割き、刈谷かりや新田と称し、刈谷の農民二〇戸をもって一集落を形成したところである。同年の御百姓田地割渡帳の表紙には「苅屋町」と記され、一〇〇石余が「苅屋町作分」、残りは長崎ながさき村「与五右衛門ニ渡ス分」と注記されている。延宝六年(一六七八)六月に至り、高一八二石五斗七升六合の農家をもって一村を創立し、刈谷新田より二字をとって村名とし、神明社を創立した(谷田郷誌)という。一村として扱われているが、天保郷帳には記されていない。また「谷田は耶陀にして山田のことなり」としたものもある(知立市史)


谷田村
やたむら

[現在地名]小川町谷田

吉田よしだ村の南、南流する那珂川右岸にあり、南は白久しらく村、西は同村および高岡たかおか村。南北に関街道(烏山経由)が通る。吉田の那須八幡塚なすはちまんづか古墳温泉神社ゆぜんじんじや古墳などから出土土師器よりやや時代の下る土師器を多数出土した谷田遺跡がある。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)に村名が載り、高二九七石余、ほかに高二八石余の谷田新田がみえ、いずれも烏山藩領。


谷田村
やだむら

[現在地名]静岡市谷田・中吉田なかよしだ、清水市谷田

有度山うどさん丘陵北西麓に位置し、西は国吉田くによしだ村。ともえ川支流の吉田川が北流する。北端を東海道が通る。郷帳類では矢田村と記される。寛永九年(一六三二)幕府領となる。元禄郷帳では高一三四石余。国立史料館本元禄郷帳では駿府城代青山幸豊領。「駿河記」では旗本酒井領。旧高旧領取調帳では同領一三四石余、東光とうこう寺除地二石。当村は中之郷なかのごう村、草薙くさなぎ村・長崎ながさき村・長崎新田・能島のうじま(現清水市)とともに西にし六ヵ村と称され、旗本酒井氏の関東および駿河国富士郡・駿東すんとう郡の知行地と区別された。文政七年(一八二四)それまで定免であった西六ヵ村に全体で一八六俵余の増年貢が賦課されたため、小前百姓は検見役人諸費用の過重負担などを指摘し、領主への直訴の態度をとった。


谷田村
たにだむら

[現在地名]生駒市谷田町・東新ひがししん町・もと町一丁目の全域、および元町二丁目・ほん町・北新町・西松にしまつおかの一部

生駒山東北麓、山崎やまざき村の西北方に立地する。「たんだ」ともいう。慶長郷帳に「滝田村」とみえるが、慶長六年(一六〇一)の片桐市正知行書立(譜牒余録)には「たにた村」と記す。元和郷帳は吉田村と誤写している。

慶長郷帳による村高は二八三・七三石(のち二八三・六八石に修正)。竜田藩(片桐且元)領。寛永一六年(一六三九)郡山藩(郭住、本多勝行)領となり、延宝七年(一六七九)旗本松平信重領に編入され、明治維新に及んだ。元禄元年(一六八八)の郷鑑指出帳(谷田村)によると本高二八四・八八石、毛付高二六〇・六四四石。


谷田村
やたむら

[現在地名]白井町谷田・桜台さくらだい一―二丁目

清戸きよど村の南東に位置。寛永二年(一六二五)知行宛行状矢田之郷とみえ、郷内九四石余などが旗本荒川領となっている。「寛文朱印留」には谷田村とみえ、佐倉藩領。貞享三年(一六八六)の村明細帳(湯浅家文書)によれば田九町三反余・八四石余、畑二町七反余・一四石余のほか、同年改の新田三町七反余・二七石余があった。小物成は一千石夫高の代金三両は組合で納め、渋柿の代銀は一斗につき一朱、鷹餌犬代金は高一千石につき金二分、糠は高一〇〇石につき四石五斗、藁は同じく一八束、うち一束は五尺縄を負担していた。馬一八。元禄七年(一六九四)の人数一〇六(同文書)。同一三年頃の下総国各村級分では高二二五石余で、旗本荒川・三輪・西山三氏の相給。


谷田村
やだむら

[現在地名]水戸市谷田町

東茨城台地の北部に位置し、鹿島街道の南側にある。北は渋井しぶい村。縄文時代前期から晩期の谷田遺跡があり、谷田貝塚仲通なかどお貝塚を含む。また谷田古墳群があり、くび塚・どう塚・栗毛くりげ塚・はかま塚とよばれる円墳を含む。

「水府志料」に「古しへ矢田に作る」とあり、暦応三年(一三四〇)の恒富村公田注文写(吉田薬王院文書)に「矢田 公田壱町一段」とあり、康暦二年(一三八〇)の沙弥祐寛石川氏幹譲状写(石川氏文書)、応永一五年(一四〇八)の沙弥祐誉石川俊幹譲状(同文書)には「東やた」とみえ、大掾氏の系譜の谷田氏がこの地に住した。


谷田村
ほーどうむら

[現在地名]名護市川上かわかみ

羽地はにじ間切の中央部東寄りに位置し、南は川上はーみ村。ホードゥとよぶ。集落は現在の川上北寄りの低い丘陵地にあった。絵図郷村帳に羽地間切「こくてん村」とみえる。琉球国高究帳にも同様に記され、高頭一七七石余、うち田一七三石余(うち永代荒地五石余)・畠三石余。「琉球国由来記」では谷田村と記され、トモノカネノロ火神はトモノカネノロの、神アシアゲは中尾ノロとトモノカネノロの管轄。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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