貨幣量と物価の関係についての古典派の学説で,〈ある国の物価水準は,その国に流通している貨幣の量に比例して決まる〉というものである。すなわち,貨幣の量が2倍になれば物価もほぼ2倍になると考える。
この学説のはしりはすでにD.ヒュームらにみられるが,19世紀のイギリスにおいて学説としてより明確なものとなり,さらにA.マーシャル,A.C.ピグーらのケンブリッジ学派によって発展させられた。上記の貨幣と物価の関係に立ち入ってふれれば,一定の貨幣量はいくつもの取引の媒介を行うことから,貨幣に媒介される取引の総価値額は,その社会に存在する貨幣の総額に,貨幣が取引を媒介する頻度,すなわち流通速度を掛けたものに等しい。他方,取引の総価値額は,その経済において一定期間に行われる個々の商品の取引額の和であるが,それは個々の取引数量に,取引される商品の価格を掛けたものの総和である。この関係をI.フィッシャーの有名な交換方程式に従って示せば,MV=PTとなる。ここで,Mは貨幣量(名目残高。通常は現金と銀行預金の和),Vは貨幣の流通速度,Pは物価水準,Tは財貨の取引総量である。PTはp1t1+p2t2+……+pntnと書ける(ただしpiとtiはi番目の商品の価格とその取引数量)。上の方程式は,流通速度や取引総量がどのようにして決まるかを明確にしないかぎり,M,V,P,Tのさまざまな値に対してつねに成立する単なる恒等式にすぎず,物価と貨幣量の特定の相関関係を示すものではない。しかし数量説の本質は,先にふれたように流通速度や取引総量がある期間内では変わらないか,あるいは貨幣量や物価水準から独立して変化すると暗黙に仮定したことにある。この仮定のもとでは,物価は貨幣量とは正比例の関係をもつ。フィッシャーの式で表される貨幣数量説の欠点は,物価と貨幣量との関係を左右する流通速度や総取引がどのような要因で決定されるかが十分明らかでなかったこと,総取引(T)の概念が必ずしも明らかでなく,また統計的に測ることが事実上不可能だったことなどである。
これらの欠点を一部克服するものとして,ケンブリッジ学派の〈現金残高アプローチ〉による貨幣数量説(現金残高数量説cash balance theory)が登場した。これは取引の総価値額の代りに名目国民所得を用いるもので,MV″=PYまたはM=kPYと書く(この方程式を〈現金残高方程式〉または〈ケンブリッジ交換方程式〉という)。ここで,V″は貨幣の所得速度,Pは物価水準,Yは実質国民所得,k(マーシャルのk)はV″の逆数=Yのうち貨幣の形で保有しておこうとする割合である。この定式化によって,取引総額が中間生産物や原材料や資本取引をも含みうることからくるあいまいさを除去するとともに,国民所得と総取引との間には一定の関係があり,その取引を円滑に行うため所得の一定部分kに等しい量の貨幣が人々によって需要されると考えた。すなわち,上の式の右辺のkPYは貨幣の需要を表し,左辺のMは貨幣供給を表し,需要と供給が一致するように物価水準が決まるという考え方がより明確となった。さらに,所得速度やその逆数のkは利子率(正確には株式,債券の利回り)に左右され,kは利子率が増加すれば減少するという因果関係にも気づき,貨幣需要理論を一歩前進させた。しかし,まだこの段階ではケインズの流動性選好説(流動性選好理論)や新貨幣数量説(マネタリズム)のような精緻(せいち)な貨幣需要理論とはいえず,1930年代におけるケインズやその後の資産選択理論の出現を待たねばならなかった。
執筆者:鬼塚 雄丞
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貨幣量と物価水準との間に一方的な因果関係を認め、貨幣量の変動が物価水準の変化をもたらすという見解。この考え方の起源は18世紀のD・ヒュームにまでさかのぼれるが、その精緻(せいち)な理論的定式化を行ったのはI・フィッシャーである。いま貨幣量をM、貨幣の流通速度をV、物価水準をP、取引量をTとすると、一定期間中の総取引量は支払われる貨幣数量に等しいゆえ、MV=PTという関係式(フィッシャーの交換方程式)が得られる。この式自体は会計的恒等式であり、なんら因果関係は示していないが、短期間をとってみると、(1)Tは実物的要因により決まっており、(2)Vは制度的要因により与えられていると想定できるので、彼はこの式を因果的に解釈し直し、Mの増大はつねにPの比例的上昇を引き起こすと結論した。フィッシャーの考え方はその後、マーシャル、ピグーらのケンブリッジ学派により発展させられた。彼らの見解はM=kPyという現金残高方程式に要約されるため、現金残高数量説とよばれている。ここでM、Pは前と同様、yは実質国民所得、kは人々が貨幣の形で保有したいと思っている所得の割合とすると、前記の式は貨幣の需給均衡式を示している。彼らは、この式におけるkを可変的であると仮定することにより、貨幣量変化と物価水準変化の関係はかならずしも比例的ではなく、人々の貨幣保有行動により左右されると考えた。
これら二つの古い貨幣数量説はケインズ経済学の登場により、その理論的関心が急速に失われるに至ったが、それを新たに解釈し直したのがM・フリードマンによる新貨幣数量説である。彼は貨幣数量説を貨幣需要の理論として把握し、貨幣の流通速度は貨幣所得、物価水準、各種の資産の収益率などの安定的関数として表されるとした。そして、アメリカの実際のデータを利用し、貨幣量の変化は短期的には産出量に、長期的には物価水準に影響を与えるが、その大きさや期間の正確な長さは時と場合により異なることを明らかにした。この結果をもとにフリードマンは、経済安定達成の方法として、貨幣供給量を経済成長率に見合った一定率で増大すべきであるというルールに基づく貨幣政策の実施を提唱している。このような新貨幣数量説の考え方は、各国の中央銀行が最近になって採用するようになったマネーサプライ重視の金融政策に少なからぬ影響を与えている。
[外山茂樹]
『高橋泰蔵・小泉明著『交換方程式と現金残高方程式』(1958・勁草書房)』▽『M・フリードマン著、三宅武雄訳『貨幣の安定をめざして』(1963・ダイヤモンド社)』▽『M. Friedman“The Quantity Theory of Money, A Restatement” in M. Friedman (ed.), Studies in the Quantity Theory of Money (1956, U.of Chicago P.)』
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…題名は価(賃金,物価)とは何か,価の本質,の意。河上肇が1905年《国家学会雑誌》で,ついでまた福田徳三が,それが貨幣数量説(〈金銀多ければ物価貴し金銀少ければ物価賤し〉),グレシャムの法則(〈悪幣盛んに世に行はるれば精金皆隠る〉)を主張していることを指摘して以来,江戸時代の経済論,貨幣論の傑出したものとして有名になったが,論は広く政治政策論にも及んでいる。梅園が,明治時代一般に知られるようになったのは,この1編によってである。…
…この学派の人々をマネタリストmonetaristと呼ぶ。思想的にはシカゴ学派の一分派であり,その理論的基礎は新貨幣数量説という貨幣理論であるが,実際には貨幣数量説より広い意味をもつ。新貨幣数量説は,J.M.ケインズがケインズ革命において批判した古典派の貨幣理論であった貨幣数量説を,とくにインフレの分析に有用な形で復活させ,かつ現代的なものにしたものである。…
※「貨幣数量説」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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