A.マーシャルを創設者とするケンブリッジ大学中心の経済学の流れをケンブリッジ学派または(狭義の)新古典派経済学あるいは新古典学派,新古典派と呼ぶ。しかし普通,新古典派というときは,この学派のほかにローザンヌ学派,オーストリア学派をも含めた限界分析を基礎とする均衡理論を総称することが多い。したがって,〈長期〉〈短期〉の時間区分や〈期待〉などの要因を重視する場合は,それらの学派と区別する必要がある。
ケンブリッジ学派が形成・展開されたのは,ビクトリア時代から第1次大戦を経て第2次大戦に至る時期である。イギリスでいわゆるビクトリア黄金時代と呼ばれる1850-60年代の経済的繁栄は,対外的にはドイツやアメリカなどの新興資本主義諸国によってしだいに脅かされつつあったが,他方,他の諸国とともに植民地の獲得にのりだしつつある帝国主義の時代でもあった。国内的には1825年以来周期的に恐慌が発生し,植民地からの剰余価値の恩恵もあって他国よりは穏やかではあったが,労働者階級がその地位の改善を要求しはじめていた。しかし全体としては,イギリス経済は高い資本蓄積率に支えられて,まだ発展過程にあると考えられていた。マーシャルが主著《経済学原理》(1890)を出版したのはこのような時期であったから,彼は資本家,企業家,労働者という階級間の調和的発展に基本的関心を向け,短期では労資の対抗関係があるようにみえるが,長期では〈国民分配分national dividend〉(国民所得と同義。厚生経済学的に使われた)が増大するため,両者の調和が可能であると考えたのである。これに対し,マーシャルの後継者A.C.ピグーの《厚生経済学》(1920)は,第1次大戦前後のイギリスの経験に立って理論が展開されている。第1次大戦はイギリスの〈世界の工場〉としての地位を決定的にゆるがせてしまった。世界市場からの後退,植民地の自主独立などにより,海外からの収入は減少し,資本家階級は生産力の担い手としての自信を失いつつあった。ピグーが経済的厚生増大のための生産,分配,安定に関する三つの命題を掲げたことに示されるように,本書は全体として〈光より果実を求める〉ケンブリッジ学派の実践的性格を反映したものであった。このうち第三命題は後に《産業変動論》(1927)へと発展させられたが,景気変動論はむしろ,彼の後継者D.H.ロバートソンの《産業変動の研究》(1915),《銀行政策と価格水準》(1926)などを通じて早くから展開されていた。
イギリス経済は,その後29年の大恐慌後の不況期に多量の失業者と遊休設備に悩まされるようになったが,そのなかでJ.M.ケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論》(1936)が出版され,〈供給は需要をつくりだす〉という〈セーの法則〉に立って完全雇用のもとでの資源配分を取り扱ってきた従来の経済学に批判を加え,いわゆる〈ケインズ革命〉をひき起こすことになった。彼の理論はやがてケインズ学派を生みだしていくことになった。
執筆者:山田 克巳
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1885年にケンブリッジ大学の経済学教授となったA・マーシャルを創始者とし、A・C・ピグー、J・M・ケインズ、D・H・ロバートソン、J・V・ロビンソンらによって継承されていった、限界革命以降の、ケンブリッジ大学を中心とするイギリスにおける経済学の正統的学派。かつては新古典学派ともよばれたが、現在は新古典学派はより広い意味に用いられることが多い。
マーシャルは限界主義の立場にたち、価格決定論上、需要面(限界効用)にも留意しながらも、おもに供給面(生産費)の事情から価格を含む経済諸現象の解明を行った古典学派の伝統を豊かに継承し、理論面での精緻(せいち)性よりも現実問題との対応やそれへの適用を重要視するとともに、貨幣問題や長期の歴史的問題にもかなり関心を払うなど、限界革命の線上にある、ヨーロッパ大陸の当時の他の諸学派とは多分に異なった特徴をもつ経済学を展開した。彼の後継者は、側面や程度に差はあれ、すべてこのマーシャル経済学の強い影響を受けている。
ケンブリッジ学派、ことにマーシャルの経済学は、しばしば部分(均衡)分析(ないし理論)として特徴づけられ、L・ワルラスに始まるローザンヌ学派の一般(均衡)分析(理論)と対比させられているが、この部分分析という手法は、元来、マーシャルが非常に重要視した時間分析と密接不可分な関係にたっており、その点を無視して無時間の平面で、部分均衡、一般均衡の両分析を対比して相互の優劣を問うのは、どちらの分析にとっても、本来の意図との関連では公正を欠くはずである。
マーシャルは経済学のほぼ全分野を扱い、そのかなりの部分を著書としても公刊したが、後継者たちの間では、専門領域に分業の傾向が現れた。ケンブリッジ大学経済学教授職のマーシャルの後継者(1908年以降)ピグーは、マーシャルがすでに先鞭(せんべん)をつけていた厚生経済学面でもっともよく知られ、その後継者(1944年以降)ロバートソンは、1910~20年代の著書での景気変動や貨幣問題の分析に優れ、1930年刊の『貨幣論』に至るまでのケインズはおもに貨幣問題の専門家と考えられており、第二次世界大戦前のロビンソンは1933年の『不完全競争の経済学』で知られていた。
戦後もマーシャルの伝統にもっとも忠実だったのがロバートソンであったことは確かだが、1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』でかなりマーシャルにも反旗を翻したケインズや、その線上にたつ戦後のロビンソンをケンブリッジ学派とよぶかどうかについては意見が分かれるところである。しかし、その後の両者にも、現実問題やイギリスへの強い配慮等々、マーシャルの影響がなお色濃く残っていることも事実である。
[早坂 忠]
『菱山泉著『近代経済学の歴史』(1965・有信堂)』▽『J・A・シュムペーター著、東畑精一訳『経済分析の歴史5』「第5章2」(1958・岩波書店)』▽『J・A・シュムペーター著、山田雄三訳「マーシァル」(『十大経済学者』所収・1952・日本評論社)』
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…彼は学派を形成せず孤立した存在であったといわれるが,その問題意識はある意味でF.Y.エッジワースの《数理心理学》(1881)にひきつがれ,現代の一般均衡理論につながっている。 古典派経済学以後のイギリスの経済学を支配したのは,《経済学原理》(1890)の著者A.マーシャルに始まるケンブリッジ学派であった。マーシャルは,古典派経済学を否定するのではなく一般化するかたちで,効用と費用,需要と供給ははさみの二つの刃のように重要であると論じた。…
…元来はA.スミス,D.リカード,J.S.ミルらのイギリス古典派経済学に対して,限界革命以降のA.マーシャルを中心とするA.C.ピグー,D.H.ロバートソンらのケンブリッジ学派の経済学を指す。 古典派(古典学派ともいう)と新古典派(新古典学派ともいう)との基本的な相違は,前者が商品の交換価値(〈価値〉の項参照)はもっぱらその生産に投下された労働価値によって決まるとしたのに対して,後者は価値の由来を生産費とならんで需要側の限界効用に求める点にある。…
…ロンドンに生まれケンブリッジ大学を卒業。1885年から1908年までケンブリッジ大学の経済学教授を務め,A.C.ピグー,J.M.ケインズをはじめとする一群の経済学者を育てて,ケンブリッジ学派を形成した。主著《経済学原理》(1890)はその後30年間にわたって8版を重ね,当時の支配的学説として世界中に影響を及ぼした。…
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[分配からみた超過利潤]
超過利潤を準地代だと考えるマーシャルの利潤論やそれを独特の企業者職能への報酬とみなすシュンペーター,ナイトの利潤論は,主として超過利潤の出所と帰属という問題を論じている。これに対してK.マルクスやJ.M.ケインズの後を継いだイギリスケンブリッジ学派らの利潤論は利潤を分配論の一角として論じる。彼らにとって利潤とは剰余生産物もしくは純国民生産物の資本家階級への分配分のことである。…
…1930~40年代に,ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを中心に集まり,イギリスにおいてローザンヌ学派の流れをくむ一般均衡理論を代表し,マーシャル経済学の伝統を継承するケンブリッジ学派としばしば対抗的な見地に立った自由主義的経済学者を指して(日本において)用いられてきた総称。完全競争的市場機構の資源配分機能に固い信頼をいだき,民間の自発的経済活動に対する政府の干渉を強く排斥する点に特徴をもつ。…
※「ケンブリッジ学派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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