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賈誼 かぎJia Yi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

賈誼
かぎ
Jia Yi

[生]高祖7(前200)
[没]文帝12(前168)
中国,前漢の文帝時代の文学者。洛陽の人。二十余歳で博士より太中大夫に進んだが,讒言のために長沙王太傅に移され長沙におもむいた。のち再び文帝に召されて梁王の太傅となったが,梁王が落馬して死んだのをいたく嘆き1年あまりののち没した。その著に『新書』 10巻があり,「過秦論」「治安策」などでは儒家の立場に立って時勢を論じている。韻文では前漢初期の代表的辞賦作家であり,志を得ず投身した屈原をいたみ,みずからの運命になぞらえる『弔屈原賦』,やはり不遇の身を嘆く『ふく鳥賦』が有名。

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デジタル大辞泉の解説

か‐ぎ【賈誼】

[前200~前168]中国、前漢の学者・政治家。洛陽(河南省)の人。文帝に信任されたが、重臣らの反対にあって長沙王の太傅(たいふ)に左遷された。文章家・思想家としても有名。著「過秦論(かしんろん)」「新書(しんじょ)」など。

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百科事典マイペディアの解説

賈誼【かぎ】

中国,前漢の文人。文帝に重任された。20余歳にして博士,後に梁の懐王の太傅(たいふ)となる。にすぐれ,儒教を基に対匈奴(きょうど)政策,勧農政策等により,時弊を論じ漢朝統治の確立に功があった。

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世界大百科事典 第2版の解説

かぎ【賈誼 Jiǎ Yì】

前200‐前168
中国の前漢文帝に仕えた文臣。若くして洛陽の秀才とうたわれ,文帝の新政に抜擢されて最年少の博士からさらに太中大夫となった。そこで漢王朝の基礎を固める諸制度の改革に乗り出し,文帝もさらに公卿に任じようとしたが,保守的な元老にはばまれ,ついに失脚して長沙に左遷された。その後また召し返され,文帝の子の梁王の太傅(たいふ)となったが,ほどなく梁王が落馬して死に,1年余ののち彼も33歳で死んだ。著述は58編あったといわれるが,現存の《新書》58編はそのままのものでなく,《漢書》賈誼伝や食貨志などの引用文が重要である。

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大辞林 第三版の解説

かぎ【賈誼】

前200~前168) 中国、前漢の政治家・文学者。文帝に召されて博士となったが、大臣にうとまれ、長沙王の太傅たいふに左遷される。「過秦論かしんろん」などの政論は、雄渾ゆうこん流麗にして名文といわれる。著「新論」「賈長沙集」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

賈誼
かぎ
(前200―前168)

中国、前漢文帝期の政治家。洛陽(らくよう)(河南(かなん)省)の人。文帝のときわずか20余歳で博士、太中大夫(たいちゅうたいふ)となり、その才気を現したが、諸大臣にねたまれて長沙(ちょうさ)王の太傅(たいふ)に左遷された。その後ふたたび文帝に召されて文帝の子の梁(りょう)王の太傅となり、対匈奴(きょうど)政策、民生安定策、諸侯王の統制策、重農抑商策などの重要な献策を行ったが、33歳の若さで病死した。秦(しん)に続いて統一帝国を建てた前漢王朝がようやく安定し始めた時期にあたるが、建言のなかには、依然として対外的、対内的な社会不安が残されていることがうかがえる。文人としても知られ、『鳥賦(ふくちょうふ)』『弔屈原(ちょうくつげん)賦』などの作品がある。[鶴間和幸]

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世界大百科事典内の賈誼の言及

【中国文学】より

…その一は個人のこころざしを述べるもので,屈原の流れをくむ独白体であることが多い。賈誼(かぎ)の〈鵩鳥(ふくちよう)の賦〉のごとく,人間の運命についての思索を重々しいスタイルで表現する。その二は記述的な賦で,その代表的作品は武帝の大庭園を描いた司馬相如(しばしようじよ)の〈上林の賦〉と長安・洛陽の都を描写した班固の〈両都の賦〉である。…

※「賈誼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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