日本歴史地名大系 「気仙沼市」の解説 気仙沼市けせんぬまし 面積:一八四・〇三平方キロ県の北東端に位置し、北から西は岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市・東磐井(ひがしいわい)郡室根(むろね)村、南は本吉(もとよし)郡本吉町、東は同郡唐桑(からくわ)町、南東は大(おお)島を含む気仙沼湾を擁して太平洋に臨む。地形は北上山地が太平洋岸の近くまで迫るリアス海岸で、古生代二畳紀から中生代にかけての化石を多数包含する粘板岩や石灰岩からなる地層が岩礁地帯の多い風光明媚な景観を作り出している。そのため山林原野がほとんどで、耕地はわずかにすぎない。山林原野の大半は江戸時代、波路上(はじかみ)塩田・鹿折(ししおり)塩田で消費される製塩用の燃料を供給する御塩木山とよばれた藩有林であった。市全域が県立自然公園に指定され、気仙沼湾一帯は陸中海岸国立公園に含まれる。地名はアイヌ語のケセモイ、ケセムイからきており、湾内の奥、もしくはアイヌの勢力の及ぶはずれの港の意味とする説がある。陸前高田市はもと気仙郡に含まれており、「延喜式」神名帳では牡鹿(おしか)郡に計仙麻(けせま)神社、桃生(ものう)郡に計仙麻大島神社がある。計仙麻神社の所在地は確定しがたいが、計仙麻大島神社は大島の亀(かめ)山にある大島神社に比定される。古代においては陸前高田市から牡鹿郡に至る沿海部を広く「けせま」とよんでいたものと考えられる。なお慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記・漆請取日記(伊達家文書)には仮名で「けせぬま」と記されている。〔原始・古代〕海岸部に縄文早期から中期の貝塚である磯草(いそくさ)貝塚がある。完形品の土器出土が多く、県北海岸部の好資料となっている。南最知(みなみさいち)貝塚からは埋葬人骨が出土し、中期末の竪穴住居跡が検出されている。古墳時代の竪穴住居跡の発見もある。気仙沼湾奥に流入する大川流域には縄文後・晩期の田柄(たがら)貝塚があり、貝層は三〇層以上に細分される。土砂まで水洗いする調査によって石器・骨角器各々約三千点の遺物が得られた。また詳細な動物遺体の分析がなされ、ハマグリとアサリの各層変化とともに内湾性貝塚の性格が明らかにされた。 気仙沼市けせんぬまし 2009年9月1日:気仙沼市が本吉郡本吉町を編入⇒【本吉町】宮城県:本吉郡⇒【気仙沼市】[変更地名]宮城県 気仙沼市けせんぬまし 2006年3月31日:気仙沼市と本吉郡唐桑町が合併⇒【唐桑町】宮城県:本吉郡⇒【気仙沼市】宮城県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「気仙沼市」の意味・わかりやすい解説 気仙沼〔市〕けせんぬま 宮城県北東部,リアス海岸をなす三陸海岸に面する市。北と西は岩手県,東は広田湾,気仙沼湾に面し,湾内の大島を含む。1953年市制。2006年唐桑町と合体。2009年本吉町を編入。市街地は気仙沼湾の西岸に広がる。三陸有数の大漁港をもち,1967年 1000t,1968年 5000t岸壁が完成,遠洋漁業や木材輸入の基地でもある。波が静かで水深に恵まれた天然の良港を有し,おもな水産物はサンマ,マグロ,カツオ,アワビ,ウニなどで,湾内ではホヤ,ホタテガイ,ワカメの養殖が行なわれる。フカヒレの生産も行なわれる。1960年にチリ地震で発生した津波により被災し,2011年には東北地方太平洋沖地震に伴う津波により大きな被害を受けた。石油基地や工業団地が建設され,臨海工業都市の一面をもつ。羽田のお山がけは国の重要無形民俗文化財に指定。巨釜・半造で知られる唐桑半島,潮吹岩などがある岩井崎とともに三陸復興国立公園に含まれる大島は,気仙沼港からフェリーの便があり,北部にある亀山(235m)は眺望がよい。市域の北部一帯は気仙沼県立自然公園に属する。JR大船渡線が通り,気仙沼線の終点。国道45号線,284号線,346号線が通る。面積 332.44km2。人口 6万1147(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by